カルチャー
2014年12月19日
【トンデモ将軍列伝1】自分の立場を勘違いしていた「苦労知らず」の将軍・源頼家
[連載] 本当は全然偉くない征夷大将軍の真実【2】
監修・二木謙一/文・海童 暖
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「征夷大将軍」といえば、武士の棟梁であり、さぞかし立派な人物であると思いがちである。が、しかし、その実態はトンデモな人物だらけだった!『本当は全然偉くない征夷大将軍の真実』(SB新書)から、武家政権を支配した“将軍様”の素顔を紹介する本連載。第2回目は、鎌倉幕府2代将軍・源頼家について見ていこう。


自らの立場を勘違いしていた頼家


源頼家(将軍在任:1202年7月~1203年9月)
(c)フレッシュ・アップ・スタジオ

 源頼朝(よりとも)が鎌倉に入って3年目の、寿永元年(1182)8月に、待望の後継男子が誕生した。周囲の祝福を一身に受けた赤子の幼名を万寿(まんじゅ)とし、頼朝は居並ぶ御家人たちに「この子の将来を守護せよ」と言って抱かせたという。

 万寿は幼児から武芸好きであったが、蹴鞠には異常に執心し『吾妻鏡』の記録にも蹴鞠の記事が多く、暗に軽率だと評している。

 頼朝は流人時代を支えてくれた比企尼を慕い、政子が万寿を生む産所にしたのも比企館であった。比企尼の娘たちは万寿の乳母になったため、万寿は比企一族にかしずかれて育った。比企尼は甥を養子にして比企能員(ひきよしかず)と名乗らせ、万寿が元服して頼家となると、やがて能員の娘の若狭局(わかさのつぼね)との間に一幡(いちまん)が誕生している。

 建久3年(1192)7月に、頼朝が征夷大将軍に任じられると、翌年には信濃三原、下野那須野、駿河富士野で大規模な巻狩りをして、人々に頼朝の支配下になったことを知らせた。この時に頼家が鹿を射止めたのを、頼朝は神が頼家を後継者に選んだと効果的に利用した。 さらに建久6年(1195)2月に、頼朝は政子と頼家(よりいえ)、大姫(おおひめ)をともなって上洛したときに、宮中に参内し頼家を後継者として披露した。

 頼朝は晩年には独裁的な性格を強め、御家人たちと直接の結びつきを隔てていったが、20年の流人生活で苦労を積み、裸同然の状態から東国の政権を立ち上げたことから、旗揚げ時に駆けつけてきた武士には特別の計らいをしていた。

 正治元年(1199)に頼朝が急死すると、頼家が18歳で家督を相続した。頼家は生まれながらに鎌倉殿の地位を約束されたとするが、東国では頼朝以前から、武家社会を統率する者として「将軍」という観念があった。

 それは先祖が鎮守府将軍を務めた家柄の者で、武士たちの利権を保護してくれれば源氏でなくとも、武家社会の統率者としての力量があればよいとする考えが根強く残っていた。

 頼家は苦労知らずに育ち、頼朝も頼家に政治的な訓練をしていなかった。頼家は大江広元(ひろもと)の補佐を受けて政務を行なっていたが、所領紛争の訴訟では御家人を気遣うこともしなかったため、相続した3ヵ月後には、所領争いに関しては有力御家人13人による合議制が布かれ、頼家の独裁は抑えられた。

 だが頼家は、建仁2年(1202)7月に将軍宣下を受けて2代将軍となり、近習の5人の武士以外には面接を許さないとして合議制に対抗しており、自分こそが絶対的な統率者と思い込んでいたのだ。

危篤状態の間に政権の座を追われ暗殺された頼家


 頼朝は頼家に、秩父一族を統率する畠山重忠を、誠意溢れる人物と評して重用するように伝えたが、頼家は梶原景時を一の郎党としていた。景時は策を弄して讒言する癖があったが、単細胞の東国武士の中では、そのことも知恵がある証しと感じたのかもしれない。

 景時は結城朝光(ともみつ)が頼朝を思慕した発言から、謀反を計画していると頼家に訴えた。これを知った御家人66人は、景時を弾劾したが、頼家は景時を庇いきれずに鎌倉から追放せねばならなくなり、景時亡き後に頼家を支えるのは舅の比企能員となった。

 頼家は周囲に隠然たる勢力を張り巡らせる北条氏に敵意を持っており、北条氏が頼朝から与えられた新恩地を没収するなどをしていた。北条時政は逆転の機会を窺っていたが、頼家は不摂生な生活がたたり、建仁3年(1203)3月頃から体調不良となり、8月末には危篤状態に陥ったので、北条氏に好機を与えてしまったのである。

 頼家が政局から離れた間に北条時政は暗躍し、8月27日に頼家の家督譲りを発表した。頼家の嫡男一幡に関東28ヵ国の地頭職と惣守護職を、弟の千幡(実朝)には関西38ヵ国の地頭職を分与すると決め、それを朝廷に報告する使者を発した。

 小康を得た頼家は、自分の知らないうちに家督が譲られたことに驚いた。9月2日には、北条氏の露骨な処置に頼家は比企能員と謀議し、能員は頼家から北条氏追討の命を受けたが、この話を頼家の母政子が聞き、ただちに父の時政に報告したのだ。

 それを知った北条時政は、大江広元に比企氏討伐を了承させ、仏像供養をするとして能員を自邸に招いたのである。比企氏と北条氏の険悪な関係は誰もが知っており、時政邸に赴く能員を一族の者たちは引き止めたが、能員は平服で時政邸を訪れた。

 能員が時政邸に一歩踏み込んだとたんに、能員は討ち取られ、危急を知った比企一族は、比企ヶ谷の一幡の小御所に立て籠もった。これを政子は比企一族の謀反とし、御家人たちに討伐を命じると軍勢が比企ヶ谷に押し寄せた。

 比企一族の必死の抵抗に寄せ手も苦戦したが、やがて館に火を放って、比企一族も一幡も炎の中で死亡した。

 ところが頼家は、病状が若干回復して危篤を脱し、嫡男の一幡と比企一族が滅ぼされたと知り激昂した。頼家は侍所別当の和田義盛や比企能員を討ち取った張本人の仁田忠常(にったただつね)に時政追討の御教書を下した。

 だが義盛は北条勢力の突出は不快だが、頼家では鎌倉政権が持たないとして頼家を見捨て、御教書を時政に届けている。また仁田忠常は頼家に親近感を持って逡巡するうちに、北条氏に謀殺されてしまった。

鎌倉・妙本寺の一幡の墓
(c)フレッシュ・アップ・スタジオ

 政子や時政は、9月1日に将軍頼家が死亡したとし、跡目を継いだ弟の千幡を征夷大将軍に任じられたいという使者を9月7日に京に向かわせた。この日に頼家は政子から出家を命じられ、将軍から引きずり下ろされた。

 21日には、時政と大江広元が協議して頼家の鎌倉追放を決定し、頼家は伊豆の修禅寺に幽閉された。頼家は絶体絶命の自分の立場が理解できなかったようだが、北条氏は刺客を放ち、翌年の元久元年(1204)7月18日に殺害され、23歳の短い一生を終えたのである。

(第2回・了)
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本当は全然偉くない征夷大将軍の真実
武家政権を支配した“将軍様”の素顔
二木謙一 監修/海童 暖 著



【監修】二木謙一(ふたきけんいち)
1940年東京都生まれ。國學院大學大学院日本史学専攻博士課程修了。國學院大學名誉教授。豊島岡女子学園理事長。文学博士。『中世武家儀礼の研究』(吉川弘文館)でサントリー学芸賞を受賞。主な著書に『関ヶ原合戦─戦国のいちばん長い日』(中公新書)、『戦国 城と合戦 知れば知るほど』(実業之日本社)ほか多数。NHK大河ドラマ「平清盛」「江~姫たちの戦国~」「軍師 官兵衛」ほか多数の風俗・時代考証も手がけている。