カルチャー
2014年12月22日
【トンデモ将軍列伝2】えっ?クジ引きで選ばれた将軍様が存在した!足利義教
[連載] 本当は全然偉くない征夷大将軍の真実【3】
監修・二木謙一/文・海童 暖
  • はてなブックマークに追加

「征夷大将軍」といえば、武士の棟梁であり、さぞかし立派な人物であると思いがちである。が、しかし、その実態はトンデモな人物だらけだった!『本当は全然偉くない征夷大将軍の真実』(SB新書)から、武家政権を支配した“将軍様”の素顔を紹介する本連載。第3回目は、室町幕府6代将軍・足利義教について見ていこう。


前代未聞のクジ引きで選ばれた将軍様


足利義教(将軍在任:1429年3月~1441年6月)
(c)フレッシュ・アップ・スタジオ

 足利5代将軍義量(よしかず)は父・義持(よしもち)に先立ったため、将軍不在のまま4代将軍義持が政務を担っていた。しかし、その義持も危篤状態に陥った。

 義持は死に臨んでも後継者を定めようとしないため、醍醐寺の三宝院満済(まんさい)が、義持の兄弟4人からクジで将軍を選出することを進言すると、義持もこの前代未聞の選択方法を承認した。

 山名時煕(ときひろ)がクジの封印をし、管領畠山満家が石清水八幡宮でクジを引き、室町第に持ち帰った。その結果、義持の8つ年下の同母弟で青蓮院門跡だった義円(ぎえん)が6代将軍になることが決定した。神意による将軍継承という形式を取ったのである。

 すでに35歳になっていた義円は還俗し、翌年の永享元年(1429)には元服して義宣(よしのぶ)と名乗ったが、義宣には「世を忍ぶ」という響きがあるため義教(よしのり)と改名した。

確実に幕府権威を回復させた義教


 将軍就任当時の義教は、重臣たちの意見を聞きながら政治を行なっていた。だが、3代将軍義満の将軍専制を理想として、幕府の権威回復、将軍の権力強化、中央集権体制の確立を目指し、反抗する者には強硬手段で臨むようになった。義教には決断力はあったが、厳格さと背中合わせにある狂気も併せ持っていた。

 室町幕府は、全国を支配した政権だが、現実には関東以北は鎌倉公方に委任し、九州は九州探題に統治させていた。義教はこの二地方に幕府権力を浸透させるチャンスをうかがっていた。九州で無力な九州探題に代わって、当時勢力を伸ばしはじめた大内氏の力を利用し、幕府の統治権の確立に成功した。

 また古来より畿内の大社寺の勢力は大きく、中でも京の背後にあって王城鎮護の霊場とする比叡山延暦寺は、軍事的にも力を持っていた。天台座主だった義教は衆徒の横暴を熟知しており、還俗後に弟の義承(ぎしょう)を天台座主に任じ、天台勢力の取り込みを図った。

 だが、永享5年(1433)に、延暦寺山徒が園城寺(おんじょうじ)を焼討ちする事件が起こると、義教は自ら兵を率いて比叡山を包囲した。比叡山側は降伏して和睦が成立した。

 だが比叡山勢力は、幕府との対立姿勢を強める鎌倉公方足利持氏と通じて、義教の呪詛をしているとの噂が流れると、義教は比叡山一帯を包囲させ、延暦寺が降伏を申し入れるとこれを許したが、後に首謀者4人を京に招き、捕らえて首を刎ねた。

 永享6年(1434)に、幕府に反抗する鎌倉公方の足利持氏が、怨敵を呪詛する血書の願文を鶴岡八幡宮に奉納していた。そして、嫡子の賢王丸の元服には、将軍から一字を拝領する恒例を無視して義久(よしひさ)と名付けた。

 鎌倉公方を補佐する関東管領の上杉憲実(のりざね)は、持氏を宥めて将軍との対立防止に努めていたが、持氏から疎まれて暗殺の噂が流れたので、職を辞して所領の上野平井に逼塞した。永享10年(1438)8月に、持氏は憲実討伐を決意し永享の乱が始まった。

 義教は後花園天皇から治罰の綸旨と錦の御旗を受け、上杉禅秀の子持房(もちふさ)を大将に2万5000の官軍を関東に派遣した。幕府方の今川勢は足柄山を越え、持房は箱根で鎌倉勢を破った。10月には上杉憲実が武蔵の分倍河原で鎌倉方の一色(いっしき)などの軍を破ったので持氏は出家し、永安寺に幽閉された。

 前関東管領の憲実は、旧主の持氏の助命と、義久の鎌倉公方就任を、義教に嘆願したが許されず、義教は持氏父子の殺害を命じた。やむなく憲実は永安寺を攻め、持氏父子は自害して鎌倉公方は断絶したのである。

 持氏の遺児の春王丸と安王丸の兄弟は日光山に潜伏していたが、下総の結城氏朝(うじとも)の許に身を寄せるようになった。永享12年(1440)3月に、義教は実子を鎌倉公方として下向させようとすると、結城氏朝と持朝(もちとも)の父子は春王丸と安王丸を擁して結城城に関東の反幕府勢力を集め、結城合戦となった。

 結城方の頑強な抵抗に、幕府軍も攻めあぐねて1年が経ち、嘉吉元年(1441)4月の総攻撃で結城城は陥落した。

 落城寸前に城から女性を乗せた輿が脱出したが、幕府軍はこれを女装した春王丸と安王丸と見破り、幼い二人は京へ送還される途中の美濃垂井(たるい)で斬られた。

  • はてなブックマークに追加





本当は全然偉くない征夷大将軍の真実
武家政権を支配した“将軍様”の素顔
二木謙一 監修/海童 暖 著



【監修】二木謙一(ふたきけんいち)
1940年東京都生まれ。國學院大學大学院日本史学専攻博士課程修了。國學院大學名誉教授。豊島岡女子学園理事長。文学博士。『中世武家儀礼の研究』(吉川弘文館)でサントリー学芸賞を受賞。主な著書に『関ヶ原合戦─戦国のいちばん長い日』(中公新書)、『戦国 城と合戦 知れば知るほど』(実業之日本社)ほか多数。NHK大河ドラマ「平清盛」「江~姫たちの戦国~」「軍師 官兵衛」ほか多数の風俗・時代考証も手がけている。