カルチャー
2014年12月24日
【トンデモ将軍列伝3】子どもの数はなんと55人! 性豪将軍・徳川家斉
[連載] 本当は全然偉くない征夷大将軍の真実【4】
監修・二木謙一/文・海童 暖
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「征夷大将軍」といえば、武士の棟梁であり、さぞかし立派な人物であると思いがちである。が、しかし、その実態はトンデモな人物だらけだった!『本当は全然偉くない征夷大将軍の真実』(SB新書)から、武家政権を支配した“将軍様”の素顔を紹介する本連載。第4回目は、江戸幕府11代将軍・徳川家斉について見ていこう。


水野忠成を登用し享楽に溺れていった家斉


徳川家斉(将軍在任:1787年4月~1837年4月)
(c)フレッシュ・アップ・スタジオ

 徳川家斉(いえなり)は窮屈な生活の捌け口を大奥での生活に求めたのか、多くの側室を置き、生涯に男子28人、女子27人の55人の子をもうけている。

 家斉の正室は将軍世子以前の一橋豊千代時代に婚約していた、薩摩藩主の島津重豪(しげひで)の娘の茂姫(しげひめ)だが、家斉が将軍の子という立場であれば、外様大名の娘を正室にするなどは不可能だった。

 当時の日本でもっとも奔放な生活をしていたはずの家斉だが、舅の重豪のようになりたいと言っており、後半生は500万両もの借財を作って苦労した重豪を、自由奔放に生きているとして羨んだとされる。

 家斉の子で成人したのは25人だが、男子は大名統治の政策で他家へ養子に出すが、それにも大名家に加増を条件にせねば受け容れられず、女子には持参金の他に年間3000両を化粧料として送らねばならなかったので、それだけでも膨大な額になった。

 さらに子を縁づかせた大名家から借財を申し入れられることも多く、それらはやがて返済に及ばずとして鷹揚な態度を見せたため、幕府財政担当者を苦労させた。

 女性が好きな家斉だが美少年趣味もあり、水野忠成(ただあきら)もその一人とされ、将軍世子時代の家斉のお気に入りの小姓だった。忠成は旗本岡野家から旗本水野忠隣(ただちか)の養子となり、水野本家である田沼時代の老中水野忠友は、娘の婿としていた田沼の四男意正(おきまさ)を離縁し、妻まである分家の忠成を娘の婿に迎えたのである。

性豪家斉の愛妾お美代の方が企んだ陰謀とは?


 家斉は問題の多い将軍であった。寵愛する側室お美代の方にまつわる醜聞もその一つである。江戸の牛込に仏姓寺があり、ここに日啓(にっけい)という悪僧がいた。日啓は行きずりの女性に女の子を生ませていたが、心やすくしていた町人に育ててもらっていた。

 だが、その子は日に日に美しくなって評判になり、仏姓寺を菩提寺とする旗本の中野清茂(きよしげ)は、娘を貰い受けて大奥に上げたところ、たちまち家斉の手が付いた。

 娘は御中﨟のお美代の方と呼ばれるようになり、中野清茂も加増されて新番頭で2000石を拝するようになると、幕府に願いごとがある大名たちが手土産を持って訪れるようになった。

 その間に日啓は下総中山の智泉院の住職になり、お美代の方を寵愛する家斉は、第36子溶姫(やすひめ)、第41子仲姫(なかひめ)、第43子末姫(すえひめ)をもうけ、お美代の方の立場を不動のものとしていた。

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本当は全然偉くない征夷大将軍の真実
武家政権を支配した“将軍様”の素顔
二木謙一 監修/海童 暖 著



【監修】二木謙一(ふたきけんいち)
1940年東京都生まれ。國學院大學大学院日本史学専攻博士課程修了。國學院大學名誉教授。豊島岡女子学園理事長。文学博士。『中世武家儀礼の研究』(吉川弘文館)でサントリー学芸賞を受賞。主な著書に『関ヶ原合戦─戦国のいちばん長い日』(中公新書)、『戦国 城と合戦 知れば知るほど』(実業之日本社)ほか多数。NHK大河ドラマ「平清盛」「江~姫たちの戦国~」「軍師 官兵衛」ほか多数の風俗・時代考証も手がけている。