カルチャー
2014年12月29日
【トンデモ将軍列伝5】母に疎まれ少年趣味にはしった将軍・徳川家光(前編)
[連載] 本当は全然偉くない征夷大将軍の真実【6】
監修・二木謙一/文・海童 暖
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「征夷大将軍」といえば、武士の棟梁であり、さぞかし立派な人物であると思いがちである。が、しかし、その実態はトンデモな人物だらけだった!『本当は全然偉くない征夷大将軍の真実』(SB新書)から、武家政権を支配した“将軍様”の素顔を紹介する本連載。第6回目は、江戸幕府3代将軍・徳川家光について見ていこう。


両親から愛されない幼少の家光は自殺も考えた


徳川家光(将軍在任:1623年7月~1651年4月)

 家光は慶長9年(1604)に江戸城西の丸で生まれた。母は秀忠正室の江で幼名は徳川家嫡男に付けられる竹千代である。竹千代が生まれたのは、祖父の家康が征夷大将軍になり、父の秀忠が後継者とされた幕府の草創期である。

 竹千代が生まれると京都所司代では乳母を募集した。これに応募したのが小早川秀秋の家老であった稲葉正成(いまばまさなり)の妻福(後の春日局(かすがのつぼね))であった。福の夫の正成は関ヶ原の戦いで主君の秀秋を東軍に寝返らせた家老の一人で、徳川方を勝利に導いた功労者でもあった。

 小早川家は秀秋が亡くなったため断絶し、正成は浪人したため、福は乳母に応募したとされる。乳母の選考にあたっては、福の家柄および教養などが評価され、福は乳母となるために夫の正成と離婚する形をとっている。

 だが福の就職によって、正成は徳川家の家臣となることができ、家康の孫の松平忠昌(ただまさ)の家老となって越後糸魚川で2万石の所領を与えられるようになっている。さらに福の息子の稲葉正勝(まさかつ)は家光の小姓に取り立てられ、老中に就任し小田原藩主となる。

 だが、福は明智光秀の重臣斎藤利三(としみつ)の娘であり、竹千代の母江は織田信長の姪であることから、江からは仇の片割れと見られてもいた。

 竹千代が3歳になった慶長11年(1606)に、弟の国松が誕生した。国松は利発で動きも俊敏なため江の愛は国松に移り、父の秀忠にも気に入られた。

 大名家の乳母は、主君の乳児に乳を与えるだけでなく、育児にも大きく関わったので、幼児には実母よりも母らしい存在であった。虚弱な体質の竹千代は手のかかる子だったが、乳母の福が受け止めていた。

 だが竹千代は、母が自分をなぜ冷たく邪険に扱うのか、分からないまま怯える日々を続け、言葉もどもるようになったという。また『春日局譜略』によれば、国松を溺愛する両親を見た竹千代は、行く末を悲観して自害しようとしたが、乳母の福が励ましたとしている。

 いじける竹千代を教育したのは青山忠俊(あおやまただとし)であった。忠俊は竹千代を鍛えるため厳しく接し、そのため将軍襲封後の家光に恨まれて、武蔵岩槻で4万5000石の所領から2万石に減じられて、上総大多喜に転封させられた。後に家光は「自分のために厳しくしてくれたのだ」と気づき許そうとするが、忠俊はそれを受けなかった。

 子ども時代の恨みの感情は心の中に重く残るとしても、家光が執念深い性格だったことが分かる。

実は女性不信に陥った家光は少年趣味に走っていた


 秀忠夫人の江は、国松を世継ぎと考えるようになり、その空気を察した幕臣たちは竹千代を無視して国松に接近するようになった。

 福はこの状況を老中の土井利勝(どいとしかつ)に訴えている。利勝も長幼の順を違えるとお家騒動の原因となるとし、家の安泰のためには子の出来不出来には関係なく、側に仕え得る者が補佐すればいいとし、福に協力していった。

 竹千代の置かれた状況を、福が駿府の家康に直訴すると、家康は竹千代を次期将軍として接し、秀忠夫妻に竹千代を後継者として接するように教えている。秀忠も兄の秀康を差し置いて家を継いでいるが、これ以降は長子に絶対的な相続権があることが確立し、徳川将軍家の相続問題の基本になる。

 竹千代は、元和6年(1620)に弟の国松と同時に元服し、竹千代は家光と名乗るようになり、国松は甲斐一国を与えられて、忠長(ただなが)と名乗るようになった。

 家光は、元和9年(1623)の20歳の時に、父から将軍職を譲られ、京の伏見城で将軍宣下を受けた。
 この年に関白鷹司信房(たかつかさのぶふさ)の娘孝子(たかこ)が家光の御台所(みだいどころ)となるため、江戸に下り西の丸に入り、2年後の寛永2年(1625)に2歳年上の孝子との婚礼が行なわれた。徳川家の当主に摂家のような高い家柄から正室を迎えるのは初めてのことである。

 だが家光は孝子に「御台所」の呼称も与えず、2人は睦み合うこともなく、北の丸と本丸の中間に建てた中の丸に住まわせ「中丸御方(なかのまるのおかた)」と呼ばせている。

 母に疎まれて育った竹千代の女性不信は消えることなく、江の冷たい眼が竹千代の女性観に暗い影を落とし、女性を愛することのできない身となっていたようだ。

 青年期の家光は、身近で献身的に仕えてくれる小姓たちの肉体を通して、旺盛な性欲を満たしていた。
 また三田村鳶魚(みたむらえんぎょ)『公方様の話』の「家光の初恋」では、14歳の頃の乱行が記され、般若の面を被って大奥に忍び込み、江の侍女を妊娠させてしまったという。この事件により「大奥法度」が規定されたとされる。

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本当は全然偉くない征夷大将軍の真実
武家政権を支配した“将軍様”の素顔
二木謙一 監修/海童 暖 著



【監修】二木謙一(ふたきけんいち)
1940年東京都生まれ。國學院大學大学院日本史学専攻博士課程修了。國學院大學名誉教授。豊島岡女子学園理事長。文学博士。『中世武家儀礼の研究』(吉川弘文館)でサントリー学芸賞を受賞。主な著書に『関ヶ原合戦─戦国のいちばん長い日』(中公新書)、『戦国 城と合戦 知れば知るほど』(実業之日本社)ほか多数。NHK大河ドラマ「平清盛」「江~姫たちの戦国~」「軍師 官兵衛」ほか多数の風俗・時代考証も手がけている。