カルチャー
2014年12月29日
【トンデモ将軍列伝5】母に疎まれ少年趣味にはしった将軍・徳川家光(前編)
[連載] 本当は全然偉くない征夷大将軍の真実【6】
監修・二木謙一/文・海童 暖
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春日局は女性不信の家光に側室を与え続けた


 美少年遊びをやめる気配のない家光に、福はこのままでは嗣子をもうけられないと心配し、大奥制度を完備させるようになっていく。
 福は手を尽くして市中から美女を集め、部屋子として教育し、家光の目に止まるように配慮した。福の部屋には常に十数人の美女がいて、美貌と姿態で家光を魅了するあれこれを指導されたという。

 福は寛永6年(1629)に家光の疱瘡治癒祈願のため伊勢神宮に参拝し、その折りに御所に参内して春日局という局名を授かった。春日局は家光の継嗣問題に悩み、親戚筋の娘お振を無理やり家光の側室にし、哀願するようにして手を付けさせ、家光は34歳にして第1子千代姫をもうけたが家光の美少年好みは治まらなかった。

 そんな家光が心惹かれたのは、紫衣に包まれ少年のように清々しい16歳の尼僧だった。六条有純(ろくじょうありずみ)の娘で伊勢内宮社・慶光院17代院主である。

 春日局は彼女を還俗させ、名をお万として側室にした。だがお万が男子を生んでは、幕府は公家対策の妨げになるとして、妊娠するたびに堕胎薬を盛られ、あるいは不妊薬を飲まされていたという俗説もある。
 だが家光の正室を摂関家から迎え、以後の将軍にも公家から正室を迎えているため、この意味は弱いものだ。

 春日局が次に見つけたのが神田の古着屋の娘お蘭である。お蘭の容姿がお万と似ており、家光が気に入るに違いないとしてお楽と名を改めて側室にした。

 お楽は4代将軍家綱(いえつな)を産む。彼女の父は百姓身分だが、青木利長(あおきとしなが)として旗本朝倉家に仕えていた。ところが、使い込みをして江戸を追われていた。

 青木は禁猟とされた鶴を撃ち、江戸の料理屋に売ったことで死罪になり、妻子も罪人として古河藩主永井家で飼い殺しの奴卑とされていたが、勤勉さを認められて女中となっていた。美貌の利長の妻は古着商の七沢清宗(ななさわきよむね)と再婚し、お蘭も同居していた時に春日局に見染められたのである。

 春日局は次々と家光に女性を提供し、正室孝子の下女のお夏は三男長松(ながまつ)を産む。6代将軍家宣(いえのぶ)の父綱重(つなしげ)である。

 お万の方の御小姓にお玉という京の八百屋の娘ともされる者がいた。幼い時に老僧から「この子は竜を生む」と言われたとされ、京の公家出身であるお万の方に、縁を求めて仕えていたのである。

 このお玉を春日局が見い出して、家光の側室とすると次男亀松(かめまつ)を産むが早世し、続いて4男徳松(ときうまつ)を産む。後の5代将軍綱吉(つなよし)である。
 お玉は将軍綱吉の生母となったことから「玉の輿」という言葉が生まれたとされる。

 さらに、お里佐(りさ)は家光最後の子の第6子の5男鶴松(つるまつ)を産むが早世。お琴は尼さん好みの家光らしく、牛込榎町の徳円寺の娘だった。

 春日局は寛永20年(1643)9月に死亡するが、さぞ安堵したことだろう。

(後編へ続く)





本当は全然偉くない征夷大将軍の真実
武家政権を支配した“将軍様”の素顔
二木謙一 監修/海童 暖 著



【監修】二木謙一(ふたきけんいち)
1940年東京都生まれ。國學院大學大学院日本史学専攻博士課程修了。國學院大學名誉教授。豊島岡女子学園理事長。文学博士。『中世武家儀礼の研究』(吉川弘文館)でサントリー学芸賞を受賞。主な著書に『関ヶ原合戦─戦国のいちばん長い日』(中公新書)、『戦国 城と合戦 知れば知るほど』(実業之日本社)ほか多数。NHK大河ドラマ「平清盛」「江~姫たちの戦国~」「軍師 官兵衛」ほか多数の風俗・時代考証も手がけている。
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