カルチャー
2015年1月13日
【トンデモ将軍列伝・番外編】悪女? 有能な政治家? 巨万の富を手にした将軍の正室・日野富子
[連載] 本当は全然偉くない征夷大将軍の真実【9】
監修・二木謙一/文・海童 暖
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これまで鎌倉・室町・江戸の征夷大将軍の中から、6人ほど選んで、そのエピソードを取り上げてきた。今回は番外編として、足利8代将軍・義政の正室で、「日本三大悪女」のひとりとされる日野富子を取り上げよう。


足利将軍は日野家から正室を迎える慣習があった


 日野家は藤原房前(ふささき)に始まる藤原北家の流れで、代々儒学や歌道をもって朝廷に仕えた。

 足利尊氏(たかうじ)が後醍醐天皇の建武新政に反発し、西国に逃れて再起を図ったが、建武3年(1336)2月に、備後国の鞆(とも)の尊氏に持明院統の光厳上皇から武家政権を容認する院宣をもたらして助けたのが日野資名(すけな)である。

 その後も資名は尊氏に協力し、京を制圧した尊氏が光明天皇から征夷大将軍に任じられたのも、資名の努力によるものであった。

 こうして日野家と足利家は結びつき、3代義満の正室に資名の孫の業子(なりこ)が迎えられ、業子が死去すると、義満は業子の姪の康子(やすこ)を後室に迎えている。

 さらに4代義持の正室に康子の妹栄子(えいこ)が迎えられると、将軍の正室は日野家から迎える慣習となった。

凄まじい方法で蓄財していった富子


 8代義政の正室は16歳の日野富子で、この時にはすでに義政には今参局(いままいりのつぼね)という側室がいた。

 富子は長子が夭折したのは今参局の呪詛によるとし、彼女を琵琶湖の沖ノ島に流し、義政の4人の側室も追放した。

 その後富子は男子の誕生に恵まれなかったので、義政は僧籍の弟義尋(ぎじん)に将軍職を譲るとしたが、皮肉なことに男子が生まれたのである。

 幕府の支配地は大和、山城、近江など畿内の一部に限られていた。義政の散財などで年貢収入だけでは不足した。

 当時、主要な交通路に関所を設け人馬や物品に税をかけたが、富子の近江の支配地から毎月80貫の関銭が上がった。

 富子はこれを元手にして応仁の乱で窮乏する公家や諸将に陣営を問わず高利で貸し付け、財を蓄えていった。

 富子は政治を顧みない義政に代わって幕政を仕切り、義政が将軍職を9歳の義尚(よしひさ)に譲ると、富子はますます権勢を振るって蓄財への執着は増していった。

 内裏の修復などを名目にして京の七口に関所を設けて関銭を徴収し、米を買い占めて米相場による利益も図った。

 蓄財に励む富子は悪女とされたが、財貨の多くは幼い将軍義尚を擁護するため、管領や守護大名の買収に費やされたとされる。

 だが富子が政治に口出ししすぎたことで義尚と不和になるが、義尚が近江で陣没し、義政も世を去ると、落飾した富子は再び政治にかかわり、義視となった義尋の子義材(義稙)を10代将軍とした。

 しかし義視が権力を振るうと対立し、義視の死後には義材とも対立すると、細川政元とともにクーデターを起こし義材を廃した。

 「堀越公方」となった義政の異母兄の政知の子義澄(よしずみ)を11代将軍とし、明応5年(1496)に57歳の生涯を閉じた。北条政子同様に歪んだ母性愛を発揮した生涯だった。

(了)
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本当は全然偉くない征夷大将軍の真実
武家政権を支配した“将軍様”の素顔
二木謙一 監修/海童 暖 著



【監修】二木謙一(ふたきけんいち)
1940年東京都生まれ。國學院大學大学院日本史学専攻博士課程修了。國學院大學名誉教授。豊島岡女子学園理事長。文学博士。『中世武家儀礼の研究』(吉川弘文館)でサントリー学芸賞を受賞。主な著書に『関ヶ原合戦─戦国のいちばん長い日』(中公新書)、『戦国 城と合戦 知れば知るほど』(実業之日本社)ほか多数。NHK大河ドラマ「平清盛」「江~姫たちの戦国~」「軍師 官兵衛」ほか多数の風俗・時代考証も手がけている。