カルチャー
2015年6月23日
【戦う名城】日本一難攻不落といわれる熊本城
[連載] 戦う名城【3】
文・萩原さちこ
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豊臣家への忠誠心が垣間見える城


復元された本丸御殿内の昭君(しょうくん)の間。「将軍の間」の隠語で、秀吉の遺児・秀頼を非常時にかくまう部屋であったとする説もある

 慶長の役で餓死寸前の籠城経験をした清正は、それを教訓として兵糧の備えも重要視した。城内には120以上の井戸が設置され、飲料水を確保。熊本城が別名「銀杏城」と呼ばれるのは、緊急時に食糧になる銀杏の木を多く植えてあるからだ。なんと土塀には干瓢(かんぴょう)、畳には芋茎(ずいき)を埋め込むという秘策まである。

 幼いころから秀吉に仕えた清正の忠誠心は深く、2008(平成20)年に復元された本丸御殿内の「昭君の間」は、「将軍の間」の隠語で、秀吉の遺児・秀頼を緊急時にかくまう部屋だったとする説もある。大天守の戦闘仕様や小天守内の台所の存在からも、清正には秀頼を大坂城から迎え入れる心積もりがあり、最後は天守にこもってまで徹底抗戦する構えだったことが想像できる。

天守に匹敵する宇土櫓が現存


三重5階の宇土櫓は、全国で最大の現存櫓。規模もつくりも装飾も天守と同じことから、第三の天守といわれる。築400年超の木造建造物でありながら、内部見学もできる。城内にはかつて計6棟の五階櫓があった

 見どころの1つは、11棟の現存櫓だ。必見は、三重5階の宇土櫓(うとやぐら)。築400年の木造建造物でありながら、内部に入ることもできる。驚くほど頑丈で、木の命を殺さぬよう打たれた和釘、年月が生みだす木材の艶、いまでも機能する精巧な木組みの窓枠などが、当時の風情をかもしだす。最上階では、400年前と同じ風を感じながらの眺望が味わえる。

 普通の櫓は城外側だけに装飾や攻撃装置を設けるものだが、宇土櫓は四面に破風(はふ)が飾られ、天守と同じ風貌をもつ。規模も造りも装飾も天守と同じことから、「第3の天守」といわれる。城内にはかつて、宇土櫓を含め計6棟の五階櫓が存在していた。天守級の巨大櫓が並立する姿を想像すれば、熊本城のスケールの大きさがわかるだろう。

 天守南東から東側にかけての田子櫓(たごやぐら)から平櫓までの櫓群も、すべて現存建造物だ。石垣のみが残存する城は全国にあるが、石垣の頂上に建つ櫓がセットで、しかもこれだけ広範囲に完存する城は希少。城本来の姿がそのまま残る、希有な城といえる。壮大な石垣の上に現存櫓がずらりと並ぶ姿は圧巻で、古式の狭間(さま)や石落としも見ごたえ十分だ。

天に向かって弧を描く「清正流石垣」


熊本城東竹の丸櫓(ひがしたけのまるやぐら)群の高石垣。扇(おうぎ)の勾配・武者返しと呼ばれる反り返しのある石垣は、清正流石垣とも呼ばれる

 もう1つの見どころが、熊本城の代名詞ともいえる「清正流石垣」。築城した加藤清正にちなんで名づけられた石垣で、空に向かって弧を描くように反り返るシルエットが、扇のようであることから「扇の勾配」ともいわれる。

 荒々しく削られた石材は無骨で男性的ながら、それらがつくるしなやかな曲線はどこかなまめかしく女性的。底部は45度くらいの緩斜面で始まり、途中から頂上へ向かって傾斜をつけ、最上部はほぼ垂直に立ち上がる。下から見上げると登れそうな錯覚に陥るものの、途中で振り落とされることから「武者返し」の異名をとる。

(了)





図説・戦う城の科学
古代山城から近世城郭まで軍事要塞たる城の構造と攻防のすべて
萩原さちこ 著



【著者】萩原さちこ
1976年、東京都生まれ。青山学院大学卒。小学2年生で城に魅せられる。制作会社や広告代理店勤務などを経て、現在はフリーの城郭ライター・編集者。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演、講座、ガイドのほか、「城フェス」実行委員長もこなす。おもな著書に『わくわく城めぐり』(山と渓谷社)、『戦国大名の城を読む』(SB新書)、『日本100名城めぐりの旅』(学研パブリッシング)、『お城へ行こう!』(岩波ジュニア新書)、『今日から歩ける 超入門 山城へGO!』(共著/学研パブリッシング)、『戦う城の科学』(サイエンス・アイ新書)など。公益財団法人日本城郭協会学術委員会学術委員。

公式サイト http://46meg.jp/
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