カルチャー
2015年7月16日
中華人民共和国建設に協力させられた2万の「留用」日本人
[連載] 日本人が知らない「終戦」秘話【1】
文・松本利秋
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日本赤十字が留用日本人の帰国へ向けて行動


 天安門のパレードの後、林少佐たちは任務を果たしたとして、約束通り帰国させるように要請した。ところが、中華人民共和国自体が日本も含めた西側に承認されておらず、日本との国交もなかった。さらには朝鮮戦争の勃発で、帰国はますます困難な状態であった。その上、当時中国政府は国内開発に留用日本人を利用する計画を持っていた。

 1950年10月、800人の元満鉄職員とその家族が西に連れて行かれた。甘粛省(かんしゅくしょう)の天水から蘭州(らんしゅう)まで約350キロメートルの鉄道建設に従事させるためである。約300人の元満州鉄道の技術者たちは、設計、測量から建設まで立ち合い、1952年10月、予定より8ヵ月も早く2年余りで完成させた。
 この鉄道は西方からの石油輸送に使われ、中国のエネルギー政策に貢献するが、宿舎は土をくり抜いたような部屋で電気もなく、サソリが這い回るような環境であったという。

 一方、日本国内では、留用者帰国の動きも始まっていた。1950年10月、モナコのモンテカルロで開催された国際赤十字第21回連盟理事会で、日本赤十字社長島津忠承(しまづただつぐ)が、中国から帰国しない看護婦のことを採り上げ、中国の紅十字会の代表李徳全(りとくぜん)女史に協力を求めた。さらに1952年6月、高良(こうら)とみ参院議員が上海を訪れ、当時上海で留用日本人として働いていた日赤看護婦に面会調査を行なった結果、半年後に中国は、日本政府が船を派遣すれば日本人の帰国に協力すると北京放送で発表した。

 これを受けて、1953年1月26日には、島津日赤社長を団長とする代表団が北京に派遣された。しかし、日本政府は、シベリア抑留者が帰国した時、赤旗を振りながら労働歌「インターナショナル」を歌い、後に労働運動など左翼活動に参加する者も多数いたことから、留用日本人の中に共産思想に洗脳された者の存在を警戒していた。

 そのため日本政府は島津に対して、帰国する留用日本人の中に、もし不穏分子がいる場合には、強制的に送り返すことを条件にして、受け入れを承諾するように指示していたのである。当然だが、これが交渉の焦点となった。

 1953年3月4日が交渉期限とされていたが、島津は日本政府の明確な承認がないまま、3月5日午後4時、独自の決断で調印。これによって終戦から実に7年7ヵ月ぶりの、1953年3月から留用日本人の帰国第一陣が出発。以降、1958年まで帰国事業が続いたが、留用日本人のうち200人が内戦や事故で帰らぬ人となっていた。

 なお、今回の記事内容については、7月16日発売の拙著『日本人だけが知らない「終戦」の真実』(SB新書)でもふれている。あわせてご一読いただきたい。

(了)





日本人だけが知らない「終戦」の真実
松本利秋 著



松本利秋(まつもととしあき)
1947年高知県安芸郡生まれ。1971年明治大学政治経済学部政治学科卒業。国士舘大学大学院政治学研究科修士課程修了、政治学修士、国士舘大学政経学部政治学科講師。ジャーナリストとしてアメリカ、アフガニスタン、パキスタン、エジプト、カンボジア、ラオス、北方領土などの紛争地帯を取材。TV、新聞、雑誌のコメンテイター、各種企業、省庁などで講演。著書に『戦争民営化』(祥伝社)、『国際テロファイル』(かや書房)、『「極東危機」の最前線』(廣済堂出版)、『軍事同盟・日米安保条約』(クレスト社)、『熱風アジア戦機の最前線』(司書房)、『「逆さ地図」で読み解く世界情勢の本質』(小社刊)など多数。
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