カルチャー
2015年8月5日
敗戦を認めたくない軍部が玉音放送前後に起こしたクーデター
[連載] 日本人が知らない「終戦」秘話【4】
文・松本利秋
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今年は終戦から70周年を迎える。太平洋戦争を知っている世代が年々少なくなる一方で、今年は節目の年ということもあり、戦勝国が対日戦勝利を祝う式典等を予定している。また、あの戦争をテーマにした映画やドラマの放映、出版物の刊行なども相次ぎ、我われ日本人にとって例年に増して「終戦」を意識せざるを得ない年となる。この連載では、これまで昭和史の中で「8月15日」という1日で語られがちであった「終戦」について、戦勝国、交戦国などの視座も交えて、その知られざる一面を取り上げていくものである。連載を通して、日本が対外的に今も直面している多くの問題の根源が「終戦」にあるということが理解できるであろう。今回は、玉音放送前後に敗戦を認めたくない一部の将校が宮城で起こしたクーデターについて取り上げる。


日本政府は8月13日にポツダム宣言の受諾を決定


『日本人だけが知らない「終戦」の真実』(松本 利秋 著)

 日本の敗色が濃くなっていた1945年8月6日に、広島へ原爆が投下された。9日にはソ連の対日参戦および長崎へ2発目の原爆が投下された。
 ここにきて日本政府内部では、7月26日に英・米・中三国の首脳により発せられた、ポツダム宣言の受諾による降伏という意見が強まってきたが、ここで議論となったのは、天皇の地位保証(国体護持)であった。

 8月9日午前10時から、宮中において開かれた最高戦争指導会議では、主として天皇の地位について曖昧な表現でしかなかったポツダム宣言について議論が沸騰した。国体護持の立場から、陸軍では阿南惟幾(あなみこれちか)陸相や梅津美治郎(うめづよしじろう)参謀総長が、ポツダム宣言受諾に反対し、あくまでも本土決戦を主張して結論にはいたらなかった。会議が終了した後、鈴木貫太郎(すずきかんたろう)首相は、天皇臨席の御前会議として再度最高指導者会議を招集した。

終戦の詔書に署名した各大臣 ※クリックすると拡大

 翌10日午前0時から、宮城内御文庫地下の防空壕において開かれたこの御前会議の席上で、首相からの聖断要請を受けた昭和天皇により、ポツダム宣言の受諾が決定された。この時、昭和天皇は国体について「わが身はどうなっても国民を救いたい」と発言したことはよく知られている。

 御前会議での決定を知らされた陸軍省では、徹底抗戦を主張していた多数の将校から激しい反発が巻き起こった。ポツダム宣言には「全日本軍の無条件降伏」という項目があり、陸海軍は組織存亡の危機に立ったのである。

 8月12日午前0時過ぎ、サンフランシスコからの放送で連合国は、ポツダム宣言で曖昧になっていた天皇の地位に関する回答を放送した。この中では日本政府が要請した国体護持に対して、「天皇および日本政府の国家統治の権限は、連合国最高司令官に従う(subject to)ものとする」と回答されていた。

 外務省はこの英文を「制限の下に置かれる」と訳し、あくまで終戦を進めようとしたのに対して、陸軍では「隷属するものとす」であると解釈し、天皇の地位が保証されていないとして、戦争続行を唱える声が大半を占めた。

 8月12日午後3時から開催された閣議および、翌13日午前9時からの最高戦争指導会議では議論が紛糾した。閣議において最後までポツダム宣言に反対していたのは、阿南と松阪広政(まつざかひろまさ)司法大臣、安倍源基(あべぐんき)内務大臣の3名であった。しかし、午後3時の閣議において、ついにポツダム宣言受諾が決定された。

陸軍将校がクーデターを計画


 陸相官邸に戻った阿南は6名の将校に面会を求められ、クーデター計画への賛同を迫られた。「兵力使用計画」と題されたこの案では、東部軍および近衛第1師団を用いて宮城を隔離、鈴木首相、木戸幸一(きどこういち)内大臣、東郷茂徳(とうごうしげのり)外相、米内光政(よないみつまさ)海相らの政府要人を捕らえて戒厳令を発布し、国体護持を連合国側が承認するまで戦争を継続すると記されていた。阿南陸相は「梅津参謀総長と会った上で決心を伝える」と返答し、一同を解散させた。

 逆上した陸軍将校たちには通じなかったろうが、冷静に考えてみると、クーデターを起こすにはそれなりの大義名分が必要である。1936年に陸軍青年将校が起こしたクーデター未遂の二・二六事件では、天皇の真意が知れなかったため、君側の奸とされる重臣たちを討って天皇親政を実現するのが目標とされ「尊皇討奸」というスローガンが用意されていた。

 ところが、今回のクーデターには大義名分がなかった。終戦の決定が天皇自身の発意であるのは明瞭であったからだ。そのため別の理由づけが必要となり、ここで持ち出されたのが「国体護持」という抽象概念であった。
 しかし、その国体の中核である昭和天皇が、御前会議で「わが身はどうなっても国民を救いたい」と発言しており、このことからもクーデターの大義はなく、ただ陸軍の組織維持のための狼藉でしかない。

 8月14日午前7時に、陸軍省で阿南陸相と梅津参謀総長の会談が行なわれた。この席で梅津はクーデター計画に反対し、阿南もこれに同意した。一方で鈴木首相は、陸軍の妨害を排除するため、全閣僚および軍民の要人数名を加えた御前会議を招集した。
 会議において、鈴木首相から再度聖断の要請を受けた昭和天皇は、連合国の回答受諾を是認し、必要であれば自身が国民へ語りかけると述べて会議は散会された。

 会議が始まった午後1時頃、社団法人日本放送協会会長大橋八郎(おおはしはちろう)は内閣情報局に呼び出され、終戦詔勅が天皇の直接放送となる可能性があるので、至急準備を整えるようにという指示を受けた。昭和天皇による玉音放送の録音は、午後11時30分から宮内省政務室において行なわれ、録音盤(玉音盤)は徳川義寛(とくがわよしひろ)侍従に渡されて、皇后宮職事務官室内の軽金庫に保管された。






日本人だけが知らない「終戦」の真実
松本利秋 著



松本利秋(まつもととしあき)
1947年高知県安芸郡生まれ。1971年明治大学政治経済学部政治学科卒業。国士舘大学大学院政治学研究科修士課程修了、政治学修士、国士舘大学政経学部政治学科講師。ジャーナリストとしてアメリカ、アフガニスタン、パキスタン、エジプト、カンボジア、ラオス、北方領土などの紛争地帯を取材。TV、新聞、雑誌のコメンテイター、各種企業、省庁などで講演。著書に『戦争民営化』(祥伝社)、『国際テロファイル』(かや書房)、『「極東危機」の最前線』(廣済堂出版)、『軍事同盟・日米安保条約』(クレスト社)、『熱風アジア戦機の最前線』(司書房)、『「逆さ地図」で読み解く世界情勢の本質』(小社刊)など多数。
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