カルチャー
2015年8月12日
降伏調印式で再会した日中二人の将軍──20年来の知己であった岡村寧次と何応欽
[連載] 日本人が知らない「終戦」秘話【5】
文・松本利秋
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今年は終戦から70周年を迎える。太平洋戦争を知っている世代が年々少なくなる一方で、今年は節目の年ということもあり、戦勝国が対日戦勝利を祝う式典等を予定している。また、あの戦争をテーマにした映画やドラマの放映、出版物の刊行なども相次ぎ、我われ日本人にとって例年に増して「終戦」を意識せざるを得ない年となる。この連載では、これまで昭和史の中で「8月15日」という1日で語られがちであった「終戦」について、戦勝国、交戦国などの視座も交えて、その知られざる一面を取り上げていくものである。連載を通して、日本が対外的に今も直面している多くの問題の根源が「終戦」にあるということが理解できるであろう。今回は、南京での日本軍の降伏調印式について取り上げる。


二つの中国に降伏した中国の日本軍


岡村寧次大将(1884-1966)。戦後の日本人にはなじみが薄いが、中国では最も知られた日本軍人の一人。最後の支那派遣軍総司令官として105万の兵力を指揮していた。

 天皇の詔勅が発布された1945年8月15日時点まで、日本軍は中国大陸でいったい誰と戦っていたのかが問題となった。つまり、日本軍が正式に降伏するとすれば、その相手は南京に政府を置いていた蒋介石総統の下にある国民党政府ということになる。ましてや日本は中華民国も加わったポツダム宣言を受け入れることで敗戦国となったのである。

 ところが、中国大陸では戦線が複雑になっていた。主に日中戦争を戦う任務の支那派遣軍の敵は国民党軍である。だが、北部の華北地方では関東軍(満州国駐屯の日本軍)が共産党軍(八路軍)を敵として戦っていたのである。その上に国民党軍と共産党軍は、互いに中国の覇権を巡って内戦中であったのだ。

 国民党と共産党は、日本軍と戦うために一時は連合(国共合作)していたこともある。しかし、1927年7月13日、中国共産党は国共合作の終了を宣言し、国共内戦に突入した。共産党は武力闘争を開始し、各地で武力蜂起を繰り返すが、優勢な国民党軍によって鎮圧されていた。

降伏調印式に向かう支那派遣軍の幕僚。先頭は岡村大将。支那派遣軍は兵力がほぼ温存されており、無条件降伏を不服に思った岡村は「(宣言受諾は)帝国臣民を抹殺するものに斉しく帝国臣民として断じて承服し得ざる」と天皇に上奏する。しかし、昭和天皇がポツダム宣言受諾を決定した旨が伝えられると、岡村は考えを改め「承詔必謹」(天皇の決断を承り実行すること)を隷下将兵に厳命した。

 蒋介石は中華民国の国家主席に就任すると、意欲的に中国の近代化を推進する改革を行なった。1928年にはドイツからの最新兵器を輸入して、ドイツ軍軍事顧問団を招聘し、北方に展開する軍閥勢力と共産党勢力を駆逐する作戦を実行した。1928年6月9日には北京に入城し、紫禁城に残っていた清国皇帝と、それを擁護した軍閥の袁世凱(えんせいがい)が樹立していた北京政府を倒すことに成功した。

 他方、毛沢東が指揮する中国共産党は、ソ連の支援の下で農村を中心として支配領域を広げていき、1931年には江西省瑞金(ずいきん)に「中華ソビエト共和国臨時政府」を樹立する。

 この複雑な情勢の中で、1945年9月9日の支那派遣軍の投降は国民党軍を正式の相手として実施された。岡村寧次(おかむらやすじ)支那派遣軍総司令官は、南京中央軍官学校講堂で、蒋介石総統代理の何応欽(かおうきん)一級上将に対し、投降文書に調印した。

 何応欽将軍は、軍人となるために清国から日本に留学し、留学生を専門に教育する国立の東京振武学校第11期卒業生で、同じ振武学校卒業生の蒋介石の後輩である。また、陸軍士官学校28期生で、従って日本軍人の核となっている精神的な部分には理解があったと言えよう。

南京で小林浅三郎総参謀長(右)から降伏文書を受け取る何将軍(左)。中国側は東洋道義をわきまえ、"敗者"となった日本軍に威圧感を与えないよう配慮した。

 何応欽将軍と岡村総司令官は、1933年5月に日中両軍の間で結ばれた、柳条溝事件に始まる満州事変の軍事的衝突終結での塘沽(たんくー)停戦協定の交渉相手として、互いが既知の間柄であり、双方ともその人柄は分かり合っていた。

 日本軍が降伏するに当たって、岡村は極力中華民国に協力し、支援するような形で停戦業務にあたった。何将軍はそれに呼応するように日本軍に対する敬意を払って応対したのである。岡村は戦犯を裁く南京法廷では無罪となり、1949年1月に無事復員した。その後に岡村と何は、日本で再会し旧交を温めたと言われている。

 当時の支那派遣軍は105万の大軍で、日本軍の中国大陸での戦死者数は、終戦後に死亡した将兵を含めて44万6500名となっている。

 一方の関東軍は、突如ソ満国境を破って侵攻してきたソ連軍に、圧倒されて投降した。
 当然、関東軍の投降相手はソ連軍である。その後、ソ連軍は関東軍将兵約57万5000人をシベリアなどに強制連行し、強制労働に従事させる。

 武装解除は、支那派遣軍については国民党軍が行ない、日本軍もそれに従った。しかし、関東軍に対しての武装解除は、投降相手のソ連軍ではなく共産党軍であった。ソ連が共産党軍に関東軍を引き渡したからである。

 ここで関東軍は、共産党軍による武装解除を拒否した。関東軍は共産党軍に敗れたのではなく、ソ連軍に投降したという意識があったからだろう。防衛庁戦史叢書『北支の治安戦(2)』(防衛研修所戦史室)によると、関東軍が武装解除の命令を拒んだことで、中国共産党軍は関東軍に攻撃を仕掛け、8月15日から11月末までの間に戦死した日本軍将兵の数は約2900名に上ったという。

 このことからすれば、中国大陸で戦っていた日本軍はそれぞれ二つの勢力から武装解除を受け、終戦の日も違っているという奇妙な形で終戦を迎えたことになる。

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日本人だけが知らない「終戦」の真実
松本利秋 著



松本利秋(まつもととしあき)
1947年高知県安芸郡生まれ。1971年明治大学政治経済学部政治学科卒業。国士舘大学大学院政治学研究科修士課程修了、政治学修士、国士舘大学政経学部政治学科講師。ジャーナリストとしてアメリカ、アフガニスタン、パキスタン、エジプト、カンボジア、ラオス、北方領土などの紛争地帯を取材。TV、新聞、雑誌のコメンテイター、各種企業、省庁などで講演。著書に『戦争民営化』(祥伝社)、『国際テロファイル』(かや書房)、『「極東危機」の最前線』(廣済堂出版)、『軍事同盟・日米安保条約』(クレスト社)、『熱風アジア戦機の最前線』(司書房)、『「逆さ地図」で読み解く世界情勢の本質』(小社刊)など多数。