カルチャー
2015年8月12日
降伏調印式で再会した日中二人の将軍──20年来の知己であった岡村寧次と何応欽
[連載] 日本人が知らない「終戦」秘話【5】
文・松本利秋
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冷戦構造に引きずられた二つの中国の戦犯裁判


 その後、国民党と共産党は内戦を本格化させるが、米ソ冷戦構造の中でそれぞれの役割を果たしていくのである。そのため国民党と共産党では、日本軍をどのように利用していくかが問題になっていた。

 国民党総統である蒋介石は、1945年8月15日の天皇の詔勅放送の1時間前に、当時首都にしていた重慶からラジオ演説を行ない、日本の敗戦に対して、「怨みに報いるに徳をもってせよ」と人々に呼び掛けたのだ。有名な「以徳報怨」演説で、蒋介石は悪いのは日本の支配層であって、兵士たちはそれに騙されてきただけである。従って、日本国民がその迷いから一刻も早く覚めるためには、日本に対して奴隷的辱めを受けさせるべきではないとした。

 これはポツダム宣言中に含まれている、戦後の平和構築パターンを踏襲したものであった。すなわち、日本国民を一部の加害者と多くの被害者、または無実の者とに分けて線引きし、正義と不正義のバランスの上に、自国との間の関係を修復し刷新するという、東京裁判を貫く基本理念である。

 戦後しばらくは、このような蒋介石の態度を、寛容な態度として日本国民の間で感謝されていたが、最近の研究ではさまざまな解釈が行なわれている。

 一つは、米ソ冷戦が現実のものとなりつつある国際情勢を背景にしたもので、日本に莫大な賠償金や懲罰を与えて、第一次世界大戦後のドイツのように社会混乱を起こし、日本を共産化することを避けることにあった。これは50億ドルにも上る経済援助によって国民党の軍事費を支えていたアメリカの基本方針でもあった。

満州の新京にあった関東軍総司令部

 もう一つは、日本軍の敗戦後には、国民党軍と共産党軍の国内覇権を巡る戦いがあり、共産党軍の背後に控えているソ連軍の極東進出という脅威も存在していた。これを打ち破るためには、降伏した日本軍の武器と軍事的サポートを必要とした。

 関東軍を武装解除したがった共産党軍にも、降伏した日本軍を利用しつつ内戦を勝ち抜こうとする意図があり、戦後長期にわたって日本人を「留用日本人」として支配下に置き、共産党軍にはなかった空軍の創設などに協力させていった。

 中国大陸での日本の敗戦処理の問題で、重要なことは戦争犯罪の問題である。このことに対するアプローチの仕方で、中国の反日の基本的な方向が定められたと言えよう。日本の戦争犯罪については、1946年5月3日から1948年11月12日まで続いた東京裁判(極東国際軍事裁判)では、連合国がA級戦犯(平和に対する罪)と認定した日本の指導者層を裁き、7人の絞首刑、16人の終身刑、2人の有期刑という判決を下した。

 中国大陸では東京裁判とは別に、1946年4月以降に国民政府が、対日戦争犯罪裁判を開廷し、ここではB級(通例の戦争犯罪)とC級(人道に対する罪)の戦争犯罪が裁かれた。この裁判で訴追された犯罪は605件、被告は883名に上り、死刑149名、無期刑83名、有期刑272名。死刑である者は公開で死刑が執行され、ある者は市中引き回しの上で死刑となった。

 国民党政府は同時進行する国共内戦を背景として、日本兵の一部にできるだけ罪を集中させ、彼らを厳しく処罰することで他の日本人と区別し、中国民衆の日本軍に対する私的な怨念を抑制すると共に、寛大さをアピールする狙いを持っていたのである。そして戦争犯罪人とされた者以外は、ほぼ10ヵ月以内に日本本国へ送還されたのである。

 このように、被害者と加害者の線引きを明確にしていく方法は、共産党にも踏襲され、国民党政府より寛大な態度で、1人の死刑判決も下さなかった。

 中華人民共和国政府が、国家として対日戦争犯罪裁判を開始するのは、国共内戦に決着がつき中華人民共和国政府が成立した後の1956年になってからのことだ。それも、戦犯容疑者として拘留された者は、満州でソ連軍に捕らえられ、後に中国に移送されてきた966名(34名は死亡)と、共産党軍と戦って捕虜となった140名(6名は死亡)の1106名だとされている。

 裁判では日本人被告を45名に絞り込み、全員に禁固刑の判決を下した。この判断の基礎には、日本の軍国主義に罪があり、日本の人民には罪がないとの主旨があった。当時、毛沢東など指導者たちは、厳しさを増す冷戦の中で、日本を敵に回したくないという意識が働いていた。

 従って、かつての日本をごく一部の加害者と圧倒的多数の被害者。もしくは無実の者との線引きを明確にし、強大な力を持ったアメリカの庇護の下に入った日本に対して、何の報復もできないことを正当化し、中国人の報復感情を抑えた結果がごく軽い判決として反映されたと言えよう。

 日本はサンフランシスコ平和条約で、敗戦国として東京裁判とその判決を受諾した。中華人民共和国は朝鮮戦争に参加したため、この講和条約に加われなかったが、東京裁判の判決を根拠として、靖国神社に合祀(ごうし)されているA級戦犯を持ち出し、ことあるごとに靖国神社を政治問題化し、日本を敗戦国と決めつけて日本を抑え込む政治的カードとして利用し続けている。

 そのルーツは、先にも挙げたように、悪い日本人と無実な日本人を勝手に線引きして分けた上、自国民に対しては中国共産党政府の正当性を主張し、冷戦期の政策の誤りを糊塗し、悪い日本人の政治指導者を非難することで、内政の矛盾に対して非難する国民の目を外に向けさせる手段としているところにある。

 だが、中華人民共和国には日本人戦犯を裁く法的根拠は薄く、だからこそ線引き論と参加もしていないサンフランシスコ講和条約の第11条(東京裁判の受諾)をことさら採り上げることで、反日の根拠としていると言えよう。

 なお、今回の記事内容については、拙著『日本人だけが知らない「終戦」の真実』(SB新書)でもふれている。あわせてご一読いただきたい。

(了)





日本人だけが知らない「終戦」の真実
松本利秋 著



松本利秋(まつもととしあき)
1947年高知県安芸郡生まれ。1971年明治大学政治経済学部政治学科卒業。国士舘大学大学院政治学研究科修士課程修了、政治学修士、国士舘大学政経学部政治学科講師。ジャーナリストとしてアメリカ、アフガニスタン、パキスタン、エジプト、カンボジア、ラオス、北方領土などの紛争地帯を取材。TV、新聞、雑誌のコメンテイター、各種企業、省庁などで講演。著書に『戦争民営化』(祥伝社)、『国際テロファイル』(かや書房)、『「極東危機」の最前線』(廣済堂出版)、『軍事同盟・日米安保条約』(クレスト社)、『熱風アジア戦機の最前線』(司書房)、『「逆さ地図」で読み解く世界情勢の本質』(小社刊)など多数。
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