カルチャー
2015年11月12日
近代経済学に影響を与える「ユダヤ・キリスト教」の信仰
[連載] 宗教消滅─資本主義は宗教と心中する─【11】
文・島田裕巳
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資本論の起源は「神」に近い


 もう一つ、マルクスのユダヤ・キリスト教的な思考法の例としてあげられるのが、「資本」についてのとらえ方である。マルクスの言う資本は、資本主義社会における経済活動の深層に位置していて、生産関係を規定するものである。マルクスは資本を、貨幣資本、生産資本、商品資本といった形でとられ、それが多様な形態をとることを指摘した。

 その上で、資本の究極の目的が「蓄積」にあることを明らかにしようとした。資本は、もっとも効果的な手段を用いて最大の利潤を上げ、マルクスの言う剰余価値を高めることによって自己増殖を遂げていく。この資本が人格化されたものが資本家だというのである。
 マルクスの議論のなかで、資本は、「蓄積を目的とする」とされており、その点では主体的な存在と見なされている。それは、資本家の目的が資本の蓄積にあるというとらえ方とは異なっている。資本家は、むしろ資本によって動かされる存在としてとらえられている。

 日本を代表する経済学者の宇沢弘文は、こうしたマルクスの資本の概念が、「一種神秘的」であることを指摘している(『経済学の考え方』岩波新書)。それも、マルクスが資本を主体的な存在としてとらえているからで、本来経済学が志向すべき合理性を逸脱しているように見えるからである。

 さらに言えば、こうした形でとらえられたマルクスの資本は、ユダヤ・キリスト教において世界を動かす根源的な存在であり、究極の主体である神に近い。だからこそ、資本家が資本を蓄積するというとらえ方ではなく、資本の目的が蓄積にあるというとらえ方がされているのである。

 私たち日本人のほとんどは、ユダヤ教の信仰もキリスト教の信仰も持っていないために、日常の生活のなかで、この世界を創造した唯一絶対の神の存在を感じることがない。日本にも、誕生を物語る神話が伝えられてはいるものの、そこに登場する神は創造神とは言えない。
 神道の中心に位置づけられる天照大御神にしても、皇室の祖先とされ、人類社会に普遍的な太陽神の一つと見なされてはいるが、創造神としての側面はもっていない。

 それに、日本の神は必ず神社という特定の場所に建てられた空間に祀られた存在であり、遍在しているわけではない。日本人は、神社を訪れれば、そこに神の存在を感じるかもしれないが、ひとたび神社から離れてしまえば、それを感じることはないし、むしろそれができないのだ。

 ユダヤ教徒もキリスト教徒も、そしてイスラム教徒も、一神教の信者は、世界に遍在する神に対して、いついかなる場所でも祈りを捧げることができる。ところが、日本の場合には、神社に赴かなければそれができない。それ以外は、家に屋敷神を勧請するか、神棚を祀るしか、そこで祈ることができないのである。

 一神教の世界における人間と神との関係は、日本とは根本的に異なる。遍在する神は、さまざまな形で人間の生活に介入し、影響を与えるが、神社に祀られた神は、その外側では人に対して影響力を及ぼすことはほとんどないのである。






宗教消滅
資本主義は宗教と心中する
島田 裕巳 著



【著者】島田 裕巳(しまだ ひろみ)
現在は作家、宗教学者、東京女子大学非常勤講師、NPO法人葬送の自由をすすめる会会長。学生時代に宗教学者の柳川啓一に師事し、とくに通過儀礼(イニシエーション)の観点から宗教現象を分析することに関心をもつ。大学在学中にヤマギシ会の運動に参加し、大学院に進学した後も、緑のふるさと運動にかかわる。大学院では、コミューン運動の研究を行い、医療と宗教との関係についても関心をもつ。日本女子大学では宗教学を教える。 1953年東京生まれ。東京大学文学部宗教学宗教史学専修課程卒業、東京大学大学院人文科学研究課博士課程修了。放送教育開発センター助教授、日本女子大学教授、東京大学先端科学技術研究センター特任研究員を歴任。主な著書に、『創価学会』(新潮新書)、『日本の10大新宗教』、『葬式は、要らない』、『浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか』(幻冬舎新書)などがある。とくに、『葬式は、要らない』は30万部のベストセラーになる。生まれ順による相性について解説した『相性が悪い!』(新潮新書)や『プア充』(早川書房)、『0葬』(集英社)などは、大きな話題になるとともに、タイトルがそのまま流行語になった。
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