カルチャー
2015年11月12日
近代経済学に影響を与える「ユダヤ・キリスト教」の信仰
[連載] 宗教消滅─資本主義は宗教と心中する─【11】
文・島田裕巳
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宗教的な「神の見えざる手」という考え


 こうした宗教環境の違いが、経済という現象をとらえる際にも強く影響する。経済現象は、現代においてはさまざまな指標やデータによってとらえられてはいるものの、根本的には目で見ることができない。そこが政治などとは異なる。売買といったものは目で見ることができるかもしれないが、経済はそうした行為に尽きるものではないのである。

 目に見えないものをとらえようとするとき、人は、自分がすでに知っているものにそれをなぞらえようとする。そのために、欧米の社会では、経済現象を説明しようとするときに、意識的にも、あるいは無意識的にも、宗教が持ち出され、神が持ち出されてくることになるのである。

 今の私たちにとって、そうしたもののなかでもっとも身近なのが、市場には「神の見えざる手」が働いているという考え方だろう。
 現代において、この考え方は、「市場原理主義」と呼ばれる。
 市場原理主義は、市場の調整機能に対して全幅の信頼をおくものであり、市場の自由な働きを妨げている規制の撤廃が必要であることを強く主張する。規制が撤廃されれば、お互いの利害は自然に調整され、社会全体に利益がもたらされることになるというのである。

 この市場原理主義ということばを最初に使いはじめたのは、ユダヤ人の著名な投資家であるジョージ・ソロスである。ソロスは、1998年に刊行された『グローバル資本主義の危機』(大原進訳、日本経済新聞社)のなかではじめて使った。ソロス自身は、市場原理主義は、19世紀において主張された「自由放任主義」と同じだと述べている。
 マルクスのとらえる資本の背景に神の存在を認めるならば、その神は、ひたすら自らを増殖させていくことを目的としたかなり利己的な存在であり、人間の幸福というものを必ずしも考えない存在である。

 ところが、市場を自動的に調整してくれる神は、反対に人間のために行動してくれる存在であるということになる。どちらの神も絶対的なもので、世界を支配する力を発揮するととらえられているわけだが、その性格はかなり違う。マルクスのとらえる神は、人類を崩壊させてもかまわないとする恐るべき神だが、自由放任主義や市場原理主義において想定される神は、人類を根本的に救ってくれる優しい存在なのである。

 この市場を調整してくれる神の見えざる手を強調したのが、「経済学の父」とも呼ばれるアダム・スミスである。スミスは、マルクスと同じように哲学から出発し、最初は、道徳哲学を専門とした。したがって、そのスミスの出世作となったのは、『道徳感情論』(水田洋訳、岩波文庫)というものであった。
 スミスが、神の見えざる手について言及したのは、その『道徳感情論』から17年後に刊行された『国富論』(山岡洋一訳、日本経済新聞出版社)においてだった。
 『国富論』は、スミスの代表作であり、経済学の第一級の古典である。したがって、一般にも、神の見えざる手というとらえ方は、この『国富論』においてもっぱら強調されていると考えられている。

アダム・スミスは「神」とはいっていなかった


 それが経済学の常識であるともされるが、常識というのは、意外に信用のできないものである。実はスミスは、『国富論』のなかで、「神の見えざる手」などという言い方はまったくしていない。

 ただ、「見えざる手」という言い方はしている。それは、「生産物の価値がもっとも高くなるように労働を振り向けるのは、自分の利益を増やすことを意図しているからにすぎない。だがそれによって、その他の多くの場合と同じように、見えざる手に導かれて、自分がまったく意図していなかった目的を達成する動きを促進することになる」の部分においてである。

 たしかに、ここには、市場の調整機能にかかわるようなことは言われている。しかし、スミスは、それが神によるものだというとらえ方はまったくしていない。しかも、見えざる手に言及しているのはここだけだ。『道徳感情論』の方で、神の見えざる手とスミスが言っているという指摘もあるが、それも間違いである。

 ヴェーバーの議論にあったように、神の絶対性を強調するのは、カルヴィニズムにおいてである。ところが、スミスが師事した哲学者のフランシス・ハチスンは、カルヴィニズムの立場をとったスコットランド教会と対立したほどで、スミスもその影響を受けていた。したがって、スミスが、神の見えざる手などという言い方をするはずがないのである。

 むしろ、スミスという名前は、自由放任主義や、市場原理主義に通じる考え方を正当化するためのお墨付きを与える役割を果たすために持ち出されただけだと言える。経済学の父が言っていることなのだから、神に任せてさえいれば、市場は自動的に好ましい方向に調整されていき、最善の結果が得られるというわけである。
 それだけ、キリスト教の信仰をもつ西欧の人々は、神の絶対的な力に対して強い信頼を寄せていたと言うことができる。

 しかし、市場に自働調整機能があることが証明されているわけではない。むしろ、市場がいかに暴走するかは、数々の恐慌、現代においてはバブルの発生とその崩壊に示されている。市場原理主義者は、まだまだ市場に無駄な規制があるからそうした事態が起こるのだと主張するかもしれないが、現在では、市場の働きを規制するものは次々と撤廃されており、そうした主張は成り立たない。
 むしろ、現代の資本主義社会においては、マルクスの予言したことの方が正しいようにさえ見えるのである。

(続)





宗教消滅
資本主義は宗教と心中する
島田 裕巳 著



【著者】島田 裕巳(しまだ ひろみ)
現在は作家、宗教学者、東京女子大学非常勤講師、NPO法人葬送の自由をすすめる会会長。学生時代に宗教学者の柳川啓一に師事し、とくに通過儀礼(イニシエーション)の観点から宗教現象を分析することに関心をもつ。大学在学中にヤマギシ会の運動に参加し、大学院に進学した後も、緑のふるさと運動にかかわる。大学院では、コミューン運動の研究を行い、医療と宗教との関係についても関心をもつ。日本女子大学では宗教学を教える。 1953年東京生まれ。東京大学文学部宗教学宗教史学専修課程卒業、東京大学大学院人文科学研究課博士課程修了。放送教育開発センター助教授、日本女子大学教授、東京大学先端科学技術研究センター特任研究員を歴任。主な著書に、『創価学会』(新潮新書)、『日本の10大新宗教』、『葬式は、要らない』、『浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか』(幻冬舎新書)などがある。とくに、『葬式は、要らない』は30万部のベストセラーになる。生まれ順による相性について解説した『相性が悪い!』(新潮新書)や『プア充』(早川書房)、『0葬』(集英社)などは、大きな話題になるとともに、タイトルがそのまま流行語になった。
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