カルチャー
2016年2月19日
野村克也氏が語る「新人を育てる指導者の心構え」
[連載] 名将の条件――監督受難時代に必要な資質【4】
聞き手・SBCr Online編集部
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私がヤクルトと楽天監督時代に選手との接し方を変えていた理由


 指導者は人を見つけ、育て、生かしていかなければならない。選手一人ひとりを見ていると、温厚で物静かなタイプもいれば、プライドが高いタイプ、気性が激しく勝ち気なタイプなどさまざまである。生まれ育ってきた環境が違えば、性格も違ってくるのは当然のことだ。

 まず、おとなしい、自分の個性をあまり出したがらない選手に対しては、コミュニケーションをとってできるだけ多くの話をしてあげるなかで、自信をつけさせるとよい。少しずつではあるが、意識に変化が起きてくる。

 次にプライドが高い選手は、おとなしい選手以上に気を使う面がある。鼻っ柱は強いが、折れるともろいタイプが多い。ダメなものはダメ、と面と向かって言ってしまうと、シュンとしおれてしまうから、強く言いすぎても逆効果なのである。

 最後に気性が激しい「オレが何とかする」と闘志が前面に出てくる選手は、見ていて心強い。自分に自信があるからこそ気持ちが強く出てくるのだから、遠くで見守ってあげるのが一番よい。

 今の若い選手たちを指導するには、私の現役時代のように頭ごなしに叱るのはもちろんのこと、鉄拳制裁などはもってのほかだろう。事実、私はその点に注意して指導していた。

 とくにヤクルト時代と楽天時代とでは、まったくと言っていいほど選手との接し方を変えていた。ヤクルト時代は私自身の年齢が50代だったこともあって、選手との関係は親と子の関係に近かったことが影響していたのかもしれない。叱ることによって、「何だと、負けてたまるか!」と選手からの反骨心をプラスに変えていくことができた。

 だが、楽天時代は親子以上に選手たちとは年齢差がついてしまっていた。そのギャップを埋めるためにも、ヤクルト時代と同じような接し方を選手にしても、よい方向にはいかないだろうと判断していたところもある。そのうえ、きつく叱っては「オレはダメなんだな」と打たれ弱い現代っ子たちにマイナスの作用しか与えない危険性がある。そんな判断もあって、時代とともに選手との接し方を変えていた。

 ただし、何度言っても同じようなミスを繰り返してしまうような選手に対しては厳しく叱った。首脳陣と話し合ってこうやっていこうと決めたことを、実践してみようという意識が見えないのは、やるべきことをやっていないミスである。これを叱らずに見逃していたら、「こんなものでいいのかな」と選手に甘えと妥協が生まれてしまう。

 その一方で、私のように不器用で思うような結果を残せない選手もいる。自分自身のウィークポイントは本人も理解していて、それを解消するために普段から必死に練習に取り組んでいるものの、なかなか技術をマスターすることができないままでいる。

 こうした選手には厳しい言葉をかけてもマイナスに働いてしまうので、「どうしてできないんだ!」などと叱ってはいけない。「彼が技術を身につけるには、もう少し時間が必要だ」と判断して温かく見守り、辛抱することも指導者として必要な心構えなのである。

(了)





名将の条件
監督受難時代に必要な資質
野村 克也 著



野村 克也(のむらかつや)
1935年生まれ。京都府立峰山高校を卒業し、1954年にテスト生として南海ホークスに入団。現役27年間で、歴代2位の通算657本塁打、戦後初の三冠王など、その強打で数々の記録を打ち立て、不動の正捕手として南海の黄金時代を支えた。「ささやき戦術」や投手のクイックモーションの導入など、駆け引きに優れ工夫を欠かさない野球スタイルは、現在まで語り継がれる。70年の南海でのプレイングマネージャー就任以降、四球団で監督を歴任。他球団で挫折した選手を見事に立ち直らせる手腕は「野村再生工場」と呼ばれる。 ヤクルトでは「ID野球」で黄金期を築き、楽天では球団初のクライマックスシリーズ出場を果たすなど輝かしい功績を残した。インタビュー等でみせる独特の発言は「ボヤキ節」と呼ばれ、 その言葉は「ノムラ語録」として野球ファン以外にも親しまれている。
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