ビジネス
2016年8月24日
71年前から変わらない「日本の官僚組織」
文・松本利秋(国際ジャーナリスト)
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「負けること」を先送りしたかつての戦争末期の日本


 実はその根っこはかつての太平洋戦争末期に「負け」を先送りにした、当時の戦争指導部にも見て取れる。無責任な決断先送りは1945(昭和20)年8月15日を迎えるまで続き、天皇の聖断が下った後まで続くのである。

 これら一連の動きの典型的な例の1つとして挙げられるのは、当時の外務大臣東郷重徳が行ったソ連を仲介役とする終戦工作である。ソ連に和平工作仲介役を依頼する日本側の論理は当時、日本とソ連は日ソ中立条約を結んでおり、1946(昭和21)年4月までが有効期間であったからである。

 モスクワの日本大使館は東京からの指示に従い、ソ連に向けて和平工作を進めていた。1945(昭和20)年7月25日、モスクワの佐藤尚武駐ソ連日本大使は天皇の側近近衛文麿の特使派遣について再度ソ連に受け入れを要請していた。だが、ソ連側は何の反応も示していなかった。

 それもそのはずで、ソ連はヤルタ会談でアメリカ大統領ルーズベルトから対日参戦を強く求められ、それに応えて参戦を決意していたのである。つまり、ソ連は日本との中立条約がありながら、連合国側についており、事実上は敵対国であったのだ。

 日本外務省はこれほど重大な情報を集めることができず、敵国に和平の仲介を求めていたことになる。まさに思考停止状態とはこのことで、日本側の情報はソ連を通じて連合国に筒抜けとなっていた。

 事実、1945(昭和20)年7月18日、ポツダムのソ連代表団宿舎を訪ねて来たトルーマンと面会し、日本から送られて来た極秘の親書を手渡した。それは日本がソ連を通じて終戦を模索していることを示す天皇の書簡だった。

 そしてアメリカによって広島に原爆が投下された翌日の1945(昭和20)年8月7日、スターリンの下に日本の佐藤大使が外相モロトフに面会を申し込んできたという知らせが舞い込んだ。日本は原爆が投下された後もソ連の調停に希望を繋ぎ、まだ降伏の意思のないことが確認された。

 原爆投下で日本がすぐさま降伏し、ソ連参戦の機会を失うことを恐れていたスターリンは、直ちに対日参戦の指令書に署名し、その作戦実行予定日を1945(昭和20)年8月9日とした。それでもなお、佐藤大使は1945(昭和20)年8月8日午後5時、モロトフに面会するためクレムリンを訪れた。モロトフはソ連政府がポツダム宣言に参加することを伝え、日本に対する宣戦布告文を読み上げた。

 このとき、ソ連を頼りに和平を求めて来た日本は、明確にソ連から突き放されたのである。この経緯を見るだけでも、在モスクワ大使館を始め、さまざまなインテリジェンスがソ連の意図を読み解くことができず、利用されるばかりであったことがわかる。

 当時の外務省は、交渉を続けることのみが最重要課題であったがために、戦争の全体像には関心がなく、問題解決の結果を相手にゆだねることで、問題の先送りをしていただけだと言えよう。



なぜ日本は同じ過ちを繰り返すのか
太平洋戦争に学ぶ失敗の本質
松本 利秋 著



松本 利秋(まつもと としあき)
1947年高知県安芸郡生まれ。1971年明治大学政治経済学部政治学科卒業。国士舘大学大学院政治学研究科修士課程修了。政治学修士。国士舘大学政経学部政治学科講師。ジャーナリストとしてアメリカ、アフガニスタン、パキスタン、エジプト、カンボジア、ラオス、北方領土などの紛争地帯を取材。TV、新聞、雑誌のコメンテイター、各種企業、省庁などで講演。著書に『戦争民営化』(祥伝社)、『国際テロファイル』(かや書房)、『「極東危機」の最前線』(廣済堂出版)、『軍事同盟・日米安保条約』(クレスト社)、『熱風アジア戦機の最前線』(司書房)、『「逆さ地図」で読み解く世界情勢の本質』『日本人だけが知らない「終戦」の真実』(小社刊)など多数。
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