ビジネス
2016年8月24日
71年前から変わらない「日本の官僚組織」
文・松本利秋(国際ジャーナリスト)
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宮城事件に見る、現実を省みない「先送り・無責任」体質


 「本土決戦」という切り札を持っていた軍部は、それを強硬に主張することでポツダム宣言受諾という天皇の聖断でさえも無視して、終戦という結論に至る道を先延ばしし、組織温存を図った。

 その典型例が玉音放送の妨害行動である。1945(昭和20)年8月15日午前0時過ぎ、玉音放送の録音を終了して宮城を退出しようとしていた下村宏情報局総裁及び放送協会職員など数名が、坂下門付近において近衛歩兵第二連隊第三大隊長佐藤好弘大尉により拘束された。

 彼らは兵士に銃を突き付けられ、付近の守衛隊司令部の建物内に監禁された。クーデター参加に消極的な態度であった近衛第一師団森師団長が、過激派将校に師団長室内で銃撃された上に軍刀で斬殺された。さらにもう一人の同室者も斬殺された。

 この殺害後、師団参謀の古賀少佐は近衛歩兵第二連隊に展開を命じた。また、玉音放送の実行を防ぐ為に内幸町の放送会館へも近衛歩兵第一連隊第一中隊が派遣された。宮内省では電話線が切断され、皇宮警察官たちは武装解除された。

 玉音盤が宮内省内部に存在することを知った古賀少佐は侵入部隊に捜索を命じ、宮城内の捜索が行われたが、宮内省内にいた石渡荘太郎宮内大臣および木戸内大臣は金庫室などに隠れ、玉音放送用のレコードも難を逃れた。2枚の録音盤は皇后宮職事務室から運び出され、無事放送会館及び第一生命館に設けられていた予備スタジオへと運搬された。

 午前11時30分過ぎ、放送会館のスタジオ前で突如1人の憲兵将校が軍刀を抜き、放送阻止のためにスタジオに乱入しようとしたが、すぐに取り押さえられ憲兵に連行された。そして正午過ぎ、ラジオから下村総裁による予告と君が代が流れた後に玉音放送が行われ、戦闘は休戦となった。

 事件に関係した将校たちは、明らかに当時の軍法及び刑法に違反する行為を行なったにもかかわらず、敗戦とそれに伴う軍組織の解体などの混乱により、軍事裁判にかけられることも刑事責任に問われることもなかったのである。

 冒頭でふれた今回のバングラデシュ事件も、戦後日本に残された唯一の外交戦略上の武器である「経済援助」の使い方が、硬直したまま継続され続けたところに原因があったと言える。この視点から見ると、日本の官僚的組織のビヘイビアは71年前と変わっていなかったのである。

(了)


なぜ日本は同じ過ちを繰り返すのか
太平洋戦争に学ぶ失敗の本質
松本 利秋 著



松本 利秋(まつもと としあき)
1947年高知県安芸郡生まれ。1971年明治大学政治経済学部政治学科卒業。国士舘大学大学院政治学研究科修士課程修了。政治学修士。国士舘大学政経学部政治学科講師。ジャーナリストとしてアメリカ、アフガニスタン、パキスタン、エジプト、カンボジア、ラオス、北方領土などの紛争地帯を取材。TV、新聞、雑誌のコメンテイター、各種企業、省庁などで講演。著書に『戦争民営化』(祥伝社)、『国際テロファイル』(かや書房)、『「極東危機」の最前線』(廣済堂出版)、『軍事同盟・日米安保条約』(クレスト社)、『熱風アジア戦機の最前線』(司書房)、『「逆さ地図」で読み解く世界情勢の本質』『日本人だけが知らない「終戦」の真実』(小社刊)など多数。
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