カルチャー
2016年9月20日
いったいなぜ、日本には戦車が必要なのか? そこには4つのワケがある
文・木元 寛明
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第2の理由「抑止力に効力を発揮させるため」


 第2は、軍事力の本質、抑止力です。抑止力が真に効力を発揮するためには、相手国に「日本に手を出すと痛い目に会うゾ」と思わせるだけの備え――軍事力の規模、兵器、訓練錬度、士気、国民の支持、同盟国の防衛意志など――が不可欠です。

 朝鮮戦争は、抑止が破綻したわかりやすい例です。
 1950年6月25日、北朝鮮軍は150両のソ連製T34/85中戦車を先頭に、突如、南進を開始しました。奇襲された韓国軍は対戦車手段をほとんど持たず、T34中戦車になすすべがありませんでした。北朝鮮軍は3日間でソウルを陥落させ、日本から急派された米スミス支隊を烏山で一蹴し、米第24歩兵師団を大田で撃破し、半島南部の大邱・釜山に迫りました。

 北と南の著しい軍事バランスの不均衡が、北朝鮮軍の侵攻を誘発したのです。米軍は、「朝鮮半島の山岳地形、貧弱な道路網、脆弱な橋梁は、戦車の運用に不向きである」と判断して、韓国軍の要請にもかかわらずに戦車を貸与していなかったのです。戦車戦力の150対0は決定的でした。

 1950年1月12日、アチソン米国務長官は「西太平洋における米国の防衛線は、アリューシャン‐日本‐沖縄‐フィリピンを結ぶ線である」と述べ、朝鮮半島と台湾を防衛線から外しました。この「アチソン声明」も北朝鮮に誤解を与え、南進を誘った要因の一半となりました。

 真の抑止力であるためには、精強な部隊を作るだけではなく、部隊がその能力を完全に発揮できるシステム、すなわち法体系の整備、部隊への国民の支持などが重要であることは論をまちません。

 この点に関しては、「わが国の現状は極めて不十分」といわざるを得ません。このような状態を放置してきた政府・政治家の責任はもとより、国民一般の国防に関する無関心さも大きな要因です。国防を政局と切り離して、冷静に対応する英知が望まれます。

 昨今、米国政府が「尖閣諸島の防衛は日米安保条約の対象」としばしば言及していることは、アチソン声明にかんがみ、米国の防衛意志を中国に明確に示すもので、極めて意義深いことなのです。

第3の理由「陸上戦力が国土防衛の最後の砦になるから」


 第3は、陸上戦力は国土防衛の最後の砦です。万が一侵攻を受けた場合、最終的には侵攻部隊を海に追い落とさなくてはなりません。これは攻勢による決戦であり、その骨幹となる装備が戦車なのです。

 たとえ日本本土への直接侵攻の蓋然性が低いとしても、それがゼロでないかぎり、「国家百年の計」として侵攻部隊を海に追い落とすための備えを営々と持続しなければなりません。

 国土防衛作戦は、対着上陸作戦――沿岸地域における防勢行動――から始まり、陸海空全戦力を集中し、米軍の来援を得て、最終的には決戦――攻勢行動――により侵攻部隊を完全に撃破することです。国土の寸土たりとも侵攻国に与えてはいけないのです。

 50年、100年先は別としても、見通せる将来では、陸上戦力の骨幹となるのは相変わらず戦車でしょう。戦車の最大の特色は、ハイテクノロジーを駆使した攻撃力と防御力が一体となった究極の兵器であることです。

 陸上戦力は国土防衛の最後の砦です。陸上自衛隊をして最後の砦たらしめる本尊が戦車なのです。したがって、最新鋭の戦車を開発し、必要最小限の戦車を部隊に装備し、勝つための訓練を徹底して行い、ノウハウを次の世代に確実に伝えなければなりません。

第4の理由「国家の防衛意思を体現したシンボルだから」


 第4は、戦車は国家の防衛意思を体現した陸上装備のシンボルです。一躍、世界のトップクラスに躍り出た90式戦車は、約20年間の研究開発――エンジンなど主要構成品の研究試作、システムの研究、1次・2次試作など――を経て制式化し、この間1,500社以上の企業が関係したといわれます。

 戦車の研究開発から製造までを一貫して行える国は、世界を見渡しても10指に満たないでしょう。戦車は国家の技術力を挙げての結晶であり、官民協力の成果でもあります。このことは戦車という究極の兵器に、国家の防衛意思が具体的に籠められていることの証左です。

 戦車の研究開発は、ひとたび中断すると技術の進歩に追いつくことが極めて困難となります。世界に冠たる戦車を作り続けることが国家究極の防衛意思の表明なのです。

※本記事は東洋経済オンライン掲載の記事を再編集したものです。



戦車の戦う技術
マッハ5の徹甲弾が飛び交う戦場で生き残る
木元 寛明 著



木元 寛明(きもと ひろあき)
1945年、広島県生まれ。1968年、防衛大学校(12期)卒業後陸上自衛隊入隊。以降、第2戦車大隊長、第71戦車連隊長、富士学校機甲科部副部長、幹部学校主任研究開発官などを歴任して2000年に退官(陸将補)。退官後はセコム株式会社研修部で勤務。2008年以降は軍事史研究に専念。主な著書は『自衛官が教える「戦国・幕末合戦」の正しい見方』(双葉社)、『戦術学入門』『指揮官の顔』『ある防衛大学校生の青春』『戦車隊長』『陸自教範『野外令』が教える戦場の方程式』『本当の戦車の戦い方』(光人社)。
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