カルチャー
2015年6月30日
世界第2位の経済大国を援助する"矛盾"を生んだ歴史的背景
文・松本利秋
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賠償請求をしないかわりに政府開発援助(ODA)という形を求めた中国


 サンフランシスコ講和条約は、戦後の平和回復に当たって、新たな冷戦構造という国際政治上の力学的ファクターが加わり、米・英・中(台湾政府)のポツダム宣言発信国すべてが西側に入り、それに日本も取り込まれるという構図を明確にする結果となった。

 以降の20年間、日本と中華人民共和国の関係は、民間貿易協定を通じて継続されてはいたが、冷戦期におけるアメリカの東アジア戦略の下に冷えたまま封印されていた。

 戦後の日中関係に大変化が起きたのは、ベトナム戦争がアメリカの敗北で終わったことに端を発している。ベトナム戦争ではアメリカが当時南ベトナムの首都サイゴン(現ホーチミン)から「名誉ある撤退」として撤兵をしたが、その途端に北ベトナム軍の総攻撃が始まり、1975年にはあっさりと南ベトナムは消滅してしまった。

 いくら背後にソ連と中国の援助があったとは言えども、北ベトナムというアジアの小国が軍事大国であるアメリカを敗走させたことが、アジアやアフリカ諸国に与えたショックは非常に大きかった。そんな中でアメリカの威信と力を保とうとしたのが、当時の国務長官キッシンジャー博士の戦略で、その中心となるのが「米中接近」であった。

 中国は、1969年3月に中ソ国境でソ連軍と武力衝突を起こしたが、そのために国境に100万人のソ連軍が展開するという一触即発の状況にあった。中国側の恐怖感は強く、ソ連の核攻撃に備えて国内で地下壕作りを急ぐまでに追い込まれていた。

 当時のアメリカ大統領ニクソンとキッシンジャー国務長官のコンビは、そうした中国に目を付けて近付き、これまでの「ソ連・中国vsアメリカ」という冷戦構造の枠組みを「ソ連vs中国・アメリカ」という構造に組み替えようとした。こうしてソ連を牽制することで、ベトナム戦争敗戦の穴埋めとし、敗戦のショックを吸収させていく装置に仕立て上げる戦略としたのである。

 一方の中国もソ連からの脅威を受け、いかに自国の存続を図るかという問題の解決を迫られていた。ここで両国の利害が一致し、1972年のニクソン訪中となり、後の米中国交回復へと繋がっていく。

 米中の交渉は秘密理で行なわれたため、突然発表された米中接近のショックは大きかった。アメリカの中国包囲網に協力してきた西側諸国は、次々と対中関係の改善へと動いた。
 1972年3月にはイギリスが、同年九月には日本が中国と国交を正常化、10月には西ドイツがこれに続いた。

 1972年9月の、日中共同声明では国交の正常化を謳い、中国が賠償請求をしないこと、中華人民共和国が中国の正当な政府と認めることなどが盛り込まれた。
 1978年8月12日には、日中平和友好条約(正式名=日本国と中華人民共和国との間の平和友好条約)が結ばれた。これにより、長期間捻じれたままであった関係が終了することとなった。

 日中の戦争状態は、1952年の日華平和条約で台湾との間では、「戦争状態の存続の結果として生じた問題については、サンフランシスコ講和条約を準用して解決する」として規定されていたため、中国との賠償問題もこれに準ずることとなった。

 だが中国は、その代わりに政府開発援助(ODA)として、日本から多額の資金を引き出すことに成功。2015年6月現在もそれが続いており、世界第2位の経済大国を第3位の日本が援助するという、極めて不自然な状態が恒常化しているのである。

 なお、中国との「終戦」が生んだ矛盾については、7月16日発売の拙著『日本人だけが知らない「終戦」の真実』(SB新書)でもふれている。あわせてご一読いただきたい。

(了)


日本人だけが知らない「終戦」の真実
松本利秋 著



松本利秋(まつもととしあき)
1947年高知県安芸郡生まれ。1971年明治大学政治経済学部政治学科卒業。国士舘大学大学院政治学研究科修士課程修了、政治学修士、国士舘大学政経学部政治学科講師。ジャーナリストとしてアメリカ、アフガニスタン、パキスタン、エジプト、カンボジア、ラオス、北方領土などの紛争地帯を取材。TV、新聞、雑誌のコメンテイター、各種企業、省庁などで講演。著書に『戦争民営化』(祥伝社)、『国際テロファイル』(かや書房)、『「極東危機」の最前線』(廣済堂出版)、『軍事同盟・日米安保条約』(クレスト社)、『熱風アジア戦機の最前線』(司書房)、『「逆さ地図」で読み解く世界情勢の本質』(小社刊)など多数。
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