カルチャー
2015年6月30日
世界第2位の経済大国を援助する"矛盾"を生んだ歴史的背景
文・松本利秋
  • はてなブックマークに追加

中国との「終戦」にまでさかのぼる「矛盾の背景」


 1951年9月、サンフランシスコ講和条約が締結された。日本が第二次世界大戦の「敗戦国」という立場から正式に脱却し、普通の国家として国際社会に受け入れられるためのものであった。

 しかし、台湾の国民党政府、中華人民共和国は、共にサンフランシスコ講和会議に招かれなかった。中国大陸での対日戦争犯罪裁判は国共内戦と同時に進められたが、講和条約は朝鮮戦争と同時進行であった。

 1950年10月、中国は朝鮮戦争に介入し、人民解放軍将兵を表面上は義勇軍として投入した。中国が介入する直接の動機は、鴨緑江(おうりょくこう)近辺にまで迫った米軍を撃退し、中朝国境を守るということであった。

 当時ソ連は、最新鋭の武器を北朝鮮に投入したが、軍隊は参加させなかった。しかし北朝鮮の指導者金日成(キムイルソン)そのものが、ソ連軍が創り出した傀儡(かいらい)であり、このまま戦争が推移していくと、北朝鮮にはソ連の影響力のみが強く残るものとなる。

 この状況を危惧した中国共産党指導層は、早期から義勇軍の派遣を計画し、ソ連に対抗して朝鮮半島への影響力を持とうとしていた。国境線を守るだけなら、多大な犠牲を払いつつ部隊を南下させる必要はなかったのである。

 一方、国共内戦に敗れ台湾に逃れた国民党も、朝鮮戦争に参戦したがっていた。韓国の初代大統領である李承晩(イスンマン)は、アメリカでロビー活動を続けている間に台湾ロビーと深い関係を持ち、李は蒋介石を通じてアメリカの政財界に知られるようになったのである。

 従って、彼がアメリカの全面的バックアップの下で韓国初代大統領になれたのは蒋介石のお蔭である。蒋介石にとっては李承晩の韓国を支えることで、自分の国際的地位を上げると同時に、台湾が軍事介入して中国共産党に戦いを挑み、再度大陸で中華民国を樹立するという「大陸反攻」の悲願を達成したいと考えていた。

 朝鮮戦争を背景にしたこのような複雑な状況の中で、中華人民共和国と中華民国がサンフランシスコ講和会議に出席すれば、朝鮮戦争そのものも解決の糸口が見えなくなるため、台湾と中国ともに会議には招請されなかったのである。ちなみにサンフランシスコ講和条約に、参加を強く望んだ韓国政府も、対日参戦国ではないとして招請されなかった。

 講和条約第14条で連合国の賠償放棄が定められていたが、但し書きとして、日本が占領し損害を与えたものに、連合国が希望する場合には生産物や役務による補償を求めることができるとしていた。
 サンフランシスコ講和条約締結後、日本は中華人民共和国および中華民国のいずれとも、個別条約を結ぶ自由を与えられた。講和条約が発効した1952年4月28日には、自由主義陣営に属した日本は、アメリカの強い勧めもあって、中華民国(台湾政府)と日華平和条約を結んだ。この条約では戦争状態の終結、台湾の放棄など戦後処理に関する条文が盛り込まれた。

 中華民国は日本への賠償請求権は放棄したが、台湾にある日本の資産は没収した。この時中華民国が没収した資産は、軍事施設・武器・官営施設・私有財産など総額110億円で、昭和20年の日本の一般会計歳入230億円の半分弱という莫大なものだった。



日本人だけが知らない「終戦」の真実
松本利秋 著



松本利秋(まつもととしあき)
1947年高知県安芸郡生まれ。1971年明治大学政治経済学部政治学科卒業。国士舘大学大学院政治学研究科修士課程修了、政治学修士、国士舘大学政経学部政治学科講師。ジャーナリストとしてアメリカ、アフガニスタン、パキスタン、エジプト、カンボジア、ラオス、北方領土などの紛争地帯を取材。TV、新聞、雑誌のコメンテイター、各種企業、省庁などで講演。著書に『戦争民営化』(祥伝社)、『国際テロファイル』(かや書房)、『「極東危機」の最前線』(廣済堂出版)、『軍事同盟・日米安保条約』(クレスト社)、『熱風アジア戦機の最前線』(司書房)、『「逆さ地図」で読み解く世界情勢の本質』(小社刊)など多数。
  • はてなブックマークに追加