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2014年9月24日
今、話題の「アドラー心理学」の生みの親、アルフレッド・アドラーってどんな人?
[連載] アドラー 一歩踏み出す勇気【2】
文・中野 明
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ウィーン大学で医師の資格を取得したアドラー


 前回はアルフレッド・アドラーが創始したアドラー心理学のエッセンスについて解説しました。今回は一転して、アドラー本人に着目してその生涯をたどってみたいと思います。

 アドラーは、1870(明治3)年2月7日、オーストリア=ハンガリー帝国のウィーンに近いルドルフスハイムに、ユダヤ人の父レオポルド、母パウリーネの次男として生まれました。

 4歳頃、アドラーはジフテリアにかかった弟ルドルフの死に遭遇します。また5歳頃には、アドラー自身が肺炎で死ぬ瀬戸際の経験をしました。このような体験からアドラーは、死を克服する職業、すなわち医者を目指すことになります。

 1895年、アドラーはウィーン大学で医師の資格を得ると、眼科医として働き、その後、一般医療に従事しました。1898年には、ツェーリンガッセ7丁目のレオポルドシュタット地区に自分の病院を開業しています。

 またこの前年の12月、アドラーは一生の伴侶となるライサ・エプスタインと結婚しました。ライサはモスクワ近郊に住む大地主の娘でアドラーと同じくユダヤ人です。ライサはチューリッヒ大学で生物学と動物学を学び、またフェミニストで政治活動にも積極的な女性でした。

 結婚の翌年に長女、1901年に次女をもうけます。ただ、活動的なライサにとって子育ては苦痛だったようです。彼女の興味は政治活動であり、アドラーがトロッキーを知るようになるのもそんなライサの活動をとおしてです。

ジグムント・フロイトとの出会い、そして別れ


 アドラーが開院した病院の近くにプラター遊園地がありました。古くから大観覧車で有名なウィーンの娯楽施設です。

 アドラーの病院には、このプラター遊園地で働く曲芸師や道化師がやって来ました。彼らの相談に快くのっていたアドラーは、彼らが身体的な問題を抱えていて、それを克服するために厳しい訓練に耐え、現在の強靱な肉体を得るようになったことを知ります。

 アドラーがこのとき曲芸師や道化師から聞いた話は、劣等感が神経症の原因になることもあれば、活力と勇敢さを伸ばす要因にもなるという、アドラー心理学の基本となる考え方に大きな影響を及ぼすことになります。

 またこの頃、アドラーは心理学に関心を寄せるようになりました。
 そして1902年、精神科医ジグムント・フロイトの誘いを受けて、フロイトが主宰する討論グループに参加します。このグループはやがてウィーン精神分析協会へと発展しました。

 このグループに参加していたため、アドラーはフロイトの弟子だと勘違いされることがあります。しかし本人も強調するように、アドラーとフロイトはいわば同僚の関係でした。

 ちなみに、このウィーン精神分析協会にはユング心理学の創始者カール・グスタフ・ユングも参加しています。つまり19世紀が生んだ心理学の3巨頭がこの時期同じグループに所属していたわけです。ただ、アドラーとユングとの交流はほとんどなかったようです。

 その後、アドラーとフロイトの関係も微妙になります。というのも、自説を支持しない人物を排除するフロイトは、アドラーの主張する学説を疎んじるようになったからです。

 こうして1911年、結局両者は袂を分かちます。アドラーは自由精神分析研究会を設立し、翌年には会の名称を個人心理学会と改称しました。
 また、フロイトとの関係が険悪になる頃から、アドラーは診療所での治療をやめて精神科医に専念していました。

アメリカで大きな支持を得た「アドラー心理学」


 第一次世界大戦中、徴兵されたアドラーは従軍医師となります。アドラーにとって軍医の経験は、その思想に大きな影響を与えました。
 というのも、自国の民であれ敵国の民であれ、人類は皆仲間であり、戦争は同胞に対する組織的な殺人と拷問だ、とアドラーは考えたからです。

 アドラーのこの考えはさらに発展し、やがて人が全体の一部であること、全体とともに生きていることを実感すること、いわゆる共同体感覚の重要性を主張するようになります。

 第一次世界大戦後、アドラーは世界最初の児童相談所をウィーンに開設しています。また、1920年代半ばにはアメリカに初めて訪れ、やがてオーストリアでファシストの勢力が増す中、1929年にアメリカ永住を決意します。
 アメリカでのアドラー人気は高く、1930年代半ばまでにアドラーは、アメリカで最も収入のある講演家としてお抱え運転手付きの高級車で各地を飛び回ります。

 アドラーはワーカホリックで有名でした。1937(昭和12)年には、講演でヨーロッパへ出向きます。
 この頃のアドラーは、ロシア政府に拉致された長女のことで心を痛め体調もすぐれませんでした。過労や心労が原因だったのでしょうか。スコットランドのアバディーンで講演の予定だった5月28日の朝、ホテルから散歩に出掛けた際、アドラーは心臓発作で倒れ救急車の中で息を引き取りました。享年67歳でした。

(第2回・了)
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アドラー 一歩踏み出す勇気
中野 明 著



【著者】中野 明(なかの あきら) 1962年滋賀県生まれ。作家。立命館大学文学部哲学科卒。同志社大学非常勤講師。ビジネス、情報通信、歴史の3分野で精力的に執筆活動を展開。著書に『超図解 勇気の心理学 アルフレッド・アドラーが1時間でわかる本』(学研パブリッシング)、『ポケット図解 ピーター・ドラッカーの「自己実現論」がわかる本』(秀和システム)、『今日から即使える!ドラッカーのマネジメント思考』(朝日新聞出版社)、『悩める人の戦略的人生論』(祥伝社新書)など多数ある。近著は『アドラー 一歩踏み出す勇気』(SB新書)。