カルチャー
2015年8月19日
金門島の戦いで台湾を死守した日本人がいた──根本博と「白団」の活躍
[連載] 日本人が知らない「終戦」秘話【6】
文・松本利秋
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金門島の戦いを指導し台湾を守った根本博元中将


降伏文書に調印する根本博中将(1891-1966)。終戦直後、北支那方面軍司令官を兼任した根本は、戦後処理に尽力した。その後、根本は蒋介石と20年ぶりの再会を果たす。蒋は根本に早く帰国して日本再建に尽くすよう訴えた。根本の帰国時には、中国側は特別列車を仕立てて見送った。

 1949年当時の中国大陸では、日本軍の武装解除後にソ連軍も中国から撤退し、力の空白が生まれていた。その間、蒋介石の率いる国民党軍と、毛沢東配下の共産党軍との内戦がいよいよ正念場を迎え、戦況が共産党軍に有利に働いていたのである。

 当時の日本国内は、敗戦後の猛烈なインフレと大量失業により社会が混乱していた。後に日本三大ミステリーと呼ばれる、下山国鉄総裁が怪死した下山事件、三鷹駅構内で列車が暴走した三鷹事件、福島県松川で列車が脱線した松川事件など、国鉄争議に関する大事件が連続して発生していた。またソ連に抑留されていた人々が帰国した舞鶴港(京都府)では、復員兵たちが国際共産主義労働歌の「インターナショナル」を歌い赤旗を振るなど、日本国中が社会主義に傾倒するかのような雰囲気に包まれていた。

 一方で、中国大陸で共産党軍に圧倒されつつある国民党軍に対し、支援を呼びかける声も日本国内で高まり、これらの勢力は反共勢力と結びつき、国内でも反共活動が活発化していた。また、国民党軍支援を標榜して金品を騙し取る募兵詐欺事件が起こったり、国民党政府が巨額の資金を用意して募兵を始めるというデマが広まっていた。マスコミが日本人による国民党政府軍への義勇軍問題を取り上げ、騒ぎ立てるような日本の雰囲気を察知した国民党政府は、各方面で旧軍人にアプローチして、協力を要請していたのである。

 これには、占領下の日本で高級軍人をはじめとした職業軍人は公職追放され、軍人恩給の支払もおぼつかない状況が絡まっていた。軍人一筋に過ごした人たちは途方に暮れ、それに加えて骨の髄にまで浸みこんだ反共的志向があり、自分たちが敵として戦った国民党軍を正当化したいという思いも、彼らを動かすモチベーションになったと言えるだろう。

 これらの軍人たちの中で、ボランティアとして最初に台湾に渡ったのは根本氏を中心としたグループである。根本氏たちは大陸で作戦に加わった後、国民党軍の台湾への撤退と行動を共にした。しかしその頃、白団招聘を具体化しようとしていた蒋介石は根本氏たち7人とダブルブッキングとなるのを嫌い、根本氏とその秘書役の2人だけを残して5人を帰国させることになった。

 根本氏はこの時から1952年に帰国するまでの間、国民党軍の軍事顧問として多くの作戦指導に当たったが、もっとも効果が大きかったのが、中共軍の金門島(きんもんとう)上陸を阻止した作戦である。

金門島と馬祖島の位置 (c)フレッシュ・アップ・スタジオ ※無断転載を禁ず

 金門島と馬祖島(ばそとう)は、国民党政府領である。特に金門島は中共軍の支配する中国大陸から2.1キロメートルしか離れておらず、中共からすれば喉元に刺さった魚の小骨のような存在だ。1949年10月25日深夜、中共軍八個連隊は、対岸の厦門(アモイ)からの砲兵隊の援護を受け、200隻のジャンクで金門島を三方向から包囲するようにして迫って来た。これに対する国民党軍は三個師団と保衛一個連隊である。

 根本氏の作戦は、一発も反撃せずに全敵軍を上陸させ、内陸部に誘い込み一挙に撃滅するというものであった。案の定上陸部隊は簡単に上陸を果たしたが、日没後に国民党軍の奇襲部隊が、ジャンクに火を放って86隻を焼いた。これにより補給と退路を断たれた上陸軍は混乱状態に陥り、それに乗じて国民党軍は総反撃に出たのである。

 根本氏の策により、包囲の一方を開けていたが、中共軍は開けてあった海岸への道に雪崩を打つように逃げ込んで行った。国民党軍は島陰で待機していた海軍と協力し、海岸線に逃げた中共軍を、海と陸から挟撃して壊滅的な打撃を与えたのである。

根本元中将と再会した蒋介石(1960年ごろ)。根本は国共内戦で国民党軍が絶体絶命のピンチにあった時に、日本から台湾へ密航。国民党軍を補佐して、金門島の戦いで中共軍を撃滅し、台湾を死守することに成功した。

 私は、中国が台湾総統選挙を妨害する緊張状態の1996年に、取材で金門島を訪れたことがある。金門島には当時の戦場となった集落がそのまま保存され、弾痕が無数にある民家や、砲撃によって焼け焦げた農家の納屋などの生々しい痕跡を見ることができた。島の軍事博物館には、この戦闘の詳細がパネルや蝋人形などで展示してあったが、根本氏の存在を示すものは何もない。中共側の厦門の博物館にも行ったが、展示資料にもないと言うより、金門島の上陸作戦そのものが展示すらされていなかった。中国ではこのような負の歴史的事実は存在しないことになっているのだろう。

 日台関係構築に貢献した白団メンバー富田氏ら3名の白団先遣隊が、台湾に渡ったのは1949年11月である。彼らはその後に大陸に渡って重慶の蒋介石と面会し、大陸での作戦指揮を執る。だが戦況が不利となり、蒋介石一行と共に台湾に渡った。

 その後、台北近郊に開設された軍学校で、旧帝国陸軍の歩兵操典を基礎とした教練や戦術、通信、情報、戦史などを教えると共に、反共の精神教育を徹底して施したとされる。

 さらに軍学校卒業の大佐以上を対象とした高級課程。1952年の米軍の軍事顧問団派遣に伴って実施された高級幕僚課程。1965年から68年までは、軍団長クラスを養成する陸軍指揮参謀大学で教育訓練に携わるなど、台湾軍の基礎固めに大いに貢献した。

 白団メンバーは、日本では密出国などの法を犯したことになるが、台湾では軍中枢部の基礎を作り上げたとして評価され、団長を務めた富田氏は中華民国陸軍上将として遇され、遺骨の半分は台湾新北市にある海明禅寺に安置されているという。

 台湾には、日本の経団連と同じような役割を果たす「行政院国軍退除役官兵輔導委員会(退輔会)」と呼ばれる組織がある。これは民間企業に携わる退役軍人の会で、台湾の実業界に絶大な影響力を持つ。この会のメンバーには白団の教育を受けた者も多く、退輔会の発足そのものも白団が退役する軍人のために尽力した結果とされている。

 白団メンバーは、1972年の日中国交回復により、日本が台湾との国交を断絶した後に発足した「中華民族支援日本委員会」設立員として活躍。彼らは国交断絶後も、台湾の政財界との繋がりが深く、現在までの日台関係構築に貢献したことは間違いないだろう。

 なお、今回の記事内容については、拙著『日本人だけが知らない「終戦」の真実』『「逆さ地図」で読み解く世界情勢の本質』(いずれも、SB新書)でもふれている。あわせてご一読いただきたい。

(了)





日本人だけが知らない「終戦」の真実
松本利秋 著



松本利秋(まつもととしあき)
1947年高知県安芸郡生まれ。1971年明治大学政治経済学部政治学科卒業。国士舘大学大学院政治学研究科修士課程修了、政治学修士、国士舘大学政経学部政治学科講師。ジャーナリストとしてアメリカ、アフガニスタン、パキスタン、エジプト、カンボジア、ラオス、北方領土などの紛争地帯を取材。TV、新聞、雑誌のコメンテイター、各種企業、省庁などで講演。著書に『戦争民営化』(祥伝社)、『国際テロファイル』(かや書房)、『「極東危機」の最前線』(廣済堂出版)、『軍事同盟・日米安保条約』(クレスト社)、『熱風アジア戦機の最前線』(司書房)、『「逆さ地図」で読み解く世界情勢の本質』(小社刊)など多数。
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