カルチャー
2015年8月19日
金門島の戦いで台湾を死守した日本人がいた──根本博と「白団」の活躍
[連載]
日本人が知らない「終戦」秘話【6】
文・松本利秋
終戦から70周年。太平洋戦争を知っている世代が年々少なくなる一方で、今年は節目の年ということもあり、戦勝国が対日戦勝利を祝う式典等が行われた。また、あの戦争をテーマにした映画やドラマの放映、出版物の刊行なども相次ぎ、我われ日本人にとって例年に増して「終戦」を意識せざるを得ない年となっている。この連載では、これまで昭和史の中で「8月15日」という1日で語られがちであった「終戦」について、戦勝国、交戦国などの視座も交えて、その知られざる一面を取り上げていくものである。連載を通して、日本が対外的に今も直面している多くの問題の根源が「終戦」にあるということが理解できるであろう。今回は、「終戦」とはややテーマが外れるが、終戦後、台湾にわたり、金門島の戦いで国民党軍の軍事顧問として暗躍し、台湾を死守した知られざる旧日本軍関係者の存在について取り上げる。
国民党政府軍を支援する2つの旧軍人グループ
以前の連載でふれたが、日本の敗戦後、満州で逃げ遅れた軍人や民間人が共産党軍に「留用」された一方で、自ら国民党に協力して近代軍の創設に協力した旧日本軍将兵の存在もあった。この事実はマスコミなどでは報道されていたが、当時の日本は占領下のため、公式には認められていなかった。だが、1949年の第6回臨時国会で、共産党の細川嘉六(ほそかわかろく)参議院議員が質問趣意書を提出したことに対し、閣議決定された答弁書が出され公的に知られるようになった。
答弁書では、元陸軍中将根本博(ねもとひろし)氏と、同中佐吉川源三(よしかわげんぞう)氏を調査対象とした結果を伝えている。だが、その時点で根本氏は不在で、根本氏に同行していた吉川氏が帰国したのを機に接触し、調査したとしている。
その内容によると、吉川氏は1949年1月に中国人の李氏と知人宅で接触し、中国への渡航を勧誘された。李氏の斡旋で根本氏と会い、根本氏など旧帝国陸軍軍人7名は、5月に東京を出発し、宮崎県の延岡沿岸から台湾に向けて出発した。一行は7月10日に基隆(キールン)に到着。8月に根本氏らが福建省に赴き、国民党軍の作戦に参加したが、戦況は共産党軍有利に傾き、吉川氏ほか2名は帰国と記し、「その他調査せしめた結果によれば、日本国内に日本人義勇兵が組織された事実はない」と結論付けている。
この答弁書で、旧日本軍高官を含む軍人たちが内戦中の中国大陸に渡り、国民党軍に参加していたこと。まだ一部が帰国せず、国民党軍と行動を共にしている可能性が高いことを日本政府が公式に認めたことになる。
実は、国民党政府がわざわざ日本にまで人を派遣して、旧軍人に誘いをかけてきたのは、この根本中将のルートだけではなかった。もう一つのルートは、前回の連載でもふれたが、国民党軍に降伏した支那派遣軍総司令官岡村寧次(おかむらやすじ)大将を中心とするグループである。このグループは岡村氏を通じて富田直亮(とみたなおすけ)元陸軍少将が団長として加わり、富田氏が名乗っていた中国名の白鴻亮(パイホンリャン)にちなんで「白団」(ぱいだん)と呼ばれていた。白団は1949年から1969年までの20年間、団長以下83名に上る団員が台湾で軍事教官として活動し、国民党軍の基礎作りに参加したのだ。
松本利秋(まつもととしあき)
1947年高知県安芸郡生まれ。1971年明治大学政治経済学部政治学科卒業。国士舘大学大学院政治学研究科修士課程修了、政治学修士、国士舘大学政経学部政治学科講師。ジャーナリストとしてアメリカ、アフガニスタン、パキスタン、エジプト、カンボジア、ラオス、北方領土などの紛争地帯を取材。TV、新聞、雑誌のコメンテイター、各種企業、省庁などで講演。著書に『戦争民営化』(祥伝社)、『国際テロファイル』(かや書房)、『「極東危機」の最前線』(廣済堂出版)、『軍事同盟・日米安保条約』(クレスト社)、『熱風アジア戦機の最前線』(司書房)、『「逆さ地図」で読み解く世界情勢の本質』(小社刊)など多数。
1947年高知県安芸郡生まれ。1971年明治大学政治経済学部政治学科卒業。国士舘大学大学院政治学研究科修士課程修了、政治学修士、国士舘大学政経学部政治学科講師。ジャーナリストとしてアメリカ、アフガニスタン、パキスタン、エジプト、カンボジア、ラオス、北方領土などの紛争地帯を取材。TV、新聞、雑誌のコメンテイター、各種企業、省庁などで講演。著書に『戦争民営化』(祥伝社)、『国際テロファイル』(かや書房)、『「極東危機」の最前線』(廣済堂出版)、『軍事同盟・日米安保条約』(クレスト社)、『熱風アジア戦機の最前線』(司書房)、『「逆さ地図」で読み解く世界情勢の本質』(小社刊)など多数。