スキルアップ
2014年6月11日
仕事に効く、大人の漢文【5】「仕事より大切なもの」
[連載]
読むだけで人間力が磨かれる、大人の漢文【5】
監修・田部井文雄
「仕事」「人間関係」から「自分磨き」さらに「趣味」まで、漢文には人間力を高めるための知恵が詰まっています。『論語』『老子』『史記』など、知っていそうで知らない古典から“人間力”を磨くのに役立つ名言を収録した『読むだけで人間力が磨かれる、大人の漢文』から、特に仕事に効く漢文を紹介しましょう。
いつも公的な面ばかりでは疲れてしまう
仕事、人間関係、自分磨き。ここまで取り上げてきた漢文の名言は、どれも、積極的に公の場に出ていこうとする心構えを述べたものだ、ということができます。
しかし、人生、そればっかりでは疲れます。ときには公の場からは解放されて、プライベートな世界を楽しむことも必要です。
幸い、漢文の世界には、そういう楽しみに関する名言も、たくさんあります。最後に、それらを紹介していくことにいたしましょう。
紀元前四世紀の後半ごろのある日、賢者として評判が高かった荘子のもとへ、楚という大国から使者が派遣されてきました。宰相(総理大臣)に就任してほしいというのです。
荘子は答えます。
「あなたの国には、王の先祖をまつる立派な建物があって、そこには三千年も前の亀が大切に保存されているそうですね。その亀は、死んでからそんなに丁重な扱いを受けていますが、生きて泥水の中で尾を引きずって暮らしているのと、どちらがよかったと思っているでしょうかね」
使者は、「それは、生きて泥水の中で尾を引きずっている方でしょう」と答えます。そこですかさず、荘子は「お帰りください」と告げました。
◎吾(われ)、将(まさ)に尾を塗中(とちゅう)に曳(ひ)かんとす。(荘子、秋水編)
訳)私も、泥水の中で尾を引きずって暮らそうとしているのです。
総理大臣なんかになるのはまっぴら。たとえ泥の中のような貧しい暮らしでも、自由に生きる方がいい、というわけです。
荘子がそのような生き方を選んだのには、時代背景も関係があることでしょう。当時は、政情の安定しない「戦国時代」です。高い地位に昇れば昇るほど、身に危険が及ぶ可能性も高いのです。
自分らしい生き方を追い求めても構わない
それから数百年、張翰(ちょうかん)(三世紀の終わりから四世紀の初めごろ)という人物が生きたのも、同じような時代でした。『三国志』の時代から引き続き、争いがくり返されていたのです。
当時の歴史を記した『晋書』という歴史書によると、故郷を離れて官僚として働いていた張翰は、あるとき、秋風が立つのを見て、ふと、思い出したそうです。蓴菜(じゅんさい)のスープや、川魚の和え物といった、ふるさとの秋の味を。
そして、やおら、次のように決心するのです。
◎人生、志に適するを得るを貴(とうと)ぶ。(晋書、張翰伝)
訳)人生というものは、やりたいことをできるのが、大切なのだ。
いつクーデターや反乱が起こるかもわからないような世相のもと、役人仕事を続けていくのが自分の求めていることなのか。いや、故郷に帰ってあのなつかしい味を味わう方が、よっぽど、今の自分がやりたいことなのではないか。
そう考えた張翰は、そのまま、故郷に帰ってしまったということです。
さて、官職を辞めて自由に生きた詩人といえば、なんといっても陶淵明です。彼が辞職して故郷に帰るときに作った「帰去来の辞」という作品の書き出しは、非常に有名です。
◎帰りなんいざ、田園将(まさ)に蕪(あ)れなんとす、胡(なん)ぞ帰らざる。(陶淵明、帰去来の辞)
訳)さあ、帰ろう。故郷の田畑は荒れ果ててしまいそうなのだ。どうして帰らないでいられよう。
こういうふうに言われると、逆に美しい田園風景が目に浮かんで、だれしもノスタルジーをかき立てられますね。
ただ、この田園の情景は、陶淵明自身の精神の状態でもあるのでしょう。このままお役人仕事を続けていると、心がすさんでしまう。だから、なつかしいふるさとへと帰るのだ、という具合に。
この作品は、自分らしく生きるための決意表明でもあるのです。
ここに挙げた三人のような生き方は、おいそれとできることではありません。ただ、自分らしい生き方を追い求める気持ちは、忘れてはいけないでしょう。古今東西、数え切れないくらい多くの人々が、これらのことばに心を引かれてきたのです。
(了)
【監修】田部井文雄(たべいふみお)
1929年生まれ。東京教育大学大学院修士課程修了。都留文科大学、千葉大学教授を経て、現在、湯島聖堂斯文会参与。『大漢和辞典』を初めとする漢和辞典、高校教科書などの編集に数多く携わり、NHKラジオ、テレビの放送なども担当。現在は、朝日カルチャーセンターや湯島聖堂斯文会などで、漢詩文に関する講義を行っている。主な著書に、『唐詩三百首詳解(上・下)』『中国自然詩の系譜』『四字熟語物語』(いずれも大修館書店)、『陶淵明集全釈』(共著、明治書院)、『漢文塾 漢字文化の魅力(上)』『漢詩塾 漢字文化の魅力(下)』(いずれも明治書院)など。また、『親子で楽しむこども論語塾』(明治書院)、『絵でみる論語』(日本能率協会マネジメントセンター)、『読むだけで人間力が磨かれる、大人の漢文』(SB新書)などの監修も務めている。
1929年生まれ。東京教育大学大学院修士課程修了。都留文科大学、千葉大学教授を経て、現在、湯島聖堂斯文会参与。『大漢和辞典』を初めとする漢和辞典、高校教科書などの編集に数多く携わり、NHKラジオ、テレビの放送なども担当。現在は、朝日カルチャーセンターや湯島聖堂斯文会などで、漢詩文に関する講義を行っている。主な著書に、『唐詩三百首詳解(上・下)』『中国自然詩の系譜』『四字熟語物語』(いずれも大修館書店)、『陶淵明集全釈』(共著、明治書院)、『漢文塾 漢字文化の魅力(上)』『漢詩塾 漢字文化の魅力(下)』(いずれも明治書院)など。また、『親子で楽しむこども論語塾』(明治書院)、『絵でみる論語』(日本能率協会マネジメントセンター)、『読むだけで人間力が磨かれる、大人の漢文』(SB新書)などの監修も務めている。