スキルアップ
2015年6月1日
中国が拡大する本当の理由は、生存権拡大の地政学にあった!
[連載]
「逆さ地図」で読み解く世界情勢の本質【5】
文・松本利秋
尖閣問題を次世代に預けた鄧小平の真意
われわれ日本人の感覚からすれば、互いに領有権を認め合い、国際法規に従って自由に航行し、互いに交易をしていけば何の問題もないというものである。われわれにとっての海は、世界に繋がる自由の象徴であり、共有財産であるという感覚が一般的だろう。
しかし中国の実際の行動を見ると、海に点在する島々を「領土」と考え、その周りの海を自分の内海と考えているようである。
例えば尖閣諸島での中国の行動を見てみると、尖閣諸島は1895年1月14日、日本政府の閣議決定によって正式に日本領と宣言して以来、現在にいたるまで日本固有の領土である。
ところが、尖閣周辺の海底に石油・ガス資源が確認されたことから、1970年6月に台湾が、同年12月に中国が領有権を主張した。それに対して日本政府は実効支配下の尖閣諸島には領土問題は存在しないという態度を採ってきた。
戦後の日中関係構築の大きな節目となった1972年の国交回復交渉の時にも、日本は一貫して「日中に領土問題は存在しない」と主張した。だが、1978年に鄧小平(とうしょうへい)中国共産党中央委員会副主席は、来日する直前に海上民兵を乗せた漁船100隻以上を尖閣諸島付近に送り出して領土問題の存在をアピール。
当時の福田赳夫首相との会談で鄧氏は「大局を重んじよう」と呼びかけて煙に巻き、記者会見で「われわれの世代は知恵が足りない。われわれより聡明な次の世代はみんなが受け入れられる解決策を見出して解決してくれるだろう」と述べ、棚上げ論を展開したのであった。
「尖閣列島棚上げ論」はこのような経過をたどって出てきたもので、公式の会談で持ち出した話ではない。日本政府の態度は「記者会見での発言にいちいち反論しない」というものだったのだ。
来日した鄧小平は、新幹線に乗り日本の技術力の高さに心の底から驚いた。中国は鄧小平が唱えた改革開放経済政策を推進するために、優れた日本の技術力や資金の援助が必要であり、鄧小平自身の来日体験が大きく影響し、日本との軋轢は当分の間は絶対に避けなければいけないことを悟った。
一方で日本側にも、中国と平穏な関係を保たなければならない理由があった。当時はベトナム戦争に敗れたアメリカが、中国と国交を結び対中国融和策を採っており、日本にも日中国交回復を迫っていた。さらにはアラブの産油国が共同して石油輸出をコントロールし、世界経済が著しく後退したオイルショック以降の経済回復のため、巨大な中国市場獲得競争に積極的に打って出る必要があったのだ。
その結果、日本としても尖閣諸島棚上げ論を黙認することになった。だがその後、中国は日本の援助による経済成長を成し遂げ、力を付けてきた1992年(平成4年)、鄧小平政権の下で尖閣諸島領有を明記した国内法の領海法を制定した。鄧小平は自身が唱えた棚上げ論を自らの手でアッサリとひっくり返したのである。
このような経緯を見れば、2012年(平成24年)9月に民主党政権が尖閣諸島を国有化した後、にわかに中国の強硬姿勢が強まったと受け取るのは間違いである。約40年前から、日本の政権が自民党であれ民主党であれ、首相が誰であろうとも、尖閣諸島の領有を主張する中国の立場は一歩も後退していないという事実を、見逃してはならないのである。
松本利秋(まつもととしあき)
1947年高知県安芸郡生まれ。1971年明治大学政治経済学部政治学科卒業。国士舘大学大学院政治学研究科修士課程修了、政治学修士、国士舘大学政経学部政治学科講師。ジャーナリストとしてアメリカ、アフガニスタン、パキスタン、エジプト、カンボジア、ラオス、北方領土などの紛争地帯を取材。TV、新聞、雑誌のコメンテイター、各種企業、省庁などで講演。著書に『戦争民営化』(祥伝社)、『国際テロファイル』(かや書房)、『「極東危機」の最前線』(廣済堂出版)、『軍事同盟・日米安保条約』(クレスト社)、『熱風アジア戦機の最前線』(司書房)など多数。
1947年高知県安芸郡生まれ。1971年明治大学政治経済学部政治学科卒業。国士舘大学大学院政治学研究科修士課程修了、政治学修士、国士舘大学政経学部政治学科講師。ジャーナリストとしてアメリカ、アフガニスタン、パキスタン、エジプト、カンボジア、ラオス、北方領土などの紛争地帯を取材。TV、新聞、雑誌のコメンテイター、各種企業、省庁などで講演。著書に『戦争民営化』(祥伝社)、『国際テロファイル』(かや書房)、『「極東危機」の最前線』(廣済堂出版)、『軍事同盟・日米安保条約』(クレスト社)、『熱風アジア戦機の最前線』(司書房)など多数。