カルチャー
2015年7月16日
中華人民共和国建設に協力させられた2万の「留用」日本人
[連載] 日本人が知らない「終戦」秘話【1】
文・松本利秋
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中国空軍創設に協力した林弥一郎少佐


 1946年4月になると、国民党と共産党の協定で、中国大陸にいた日本人101万人が帰国することができたが、留用者たちはそのリストに入れてもらえなかった。共産党対国民党の内戦が激しさを増し、彼らの技術がますます必要となったからだ。

 実は、先に挙げたポツダム宣言第9条により、軍人が一般人より優先されて、1945年9月から帰国事業が始められたのだ。一方、一般日本人の引き揚げはポツダム宣言の条項に明記されておらず、関係各国の判断に委ねられていた。つまり、一般日本人をいつ、どのように送還するのか、もしくは抑留するのかは、統治者の裁量次第であった。

 一般日本人だけでなく技術のある軍人も留用された。元関東軍第四錬成飛行隊の林弥一郎(はやしやいちろう)少佐とその部下たちは帰国を許されず、1945年10月、瀋陽(しんよう)の八路軍司令部に呼び出された。林少佐の部下たちは、戦闘機パイロットから航空機整備兵、通信兵など当時の航空技術の最先端を行く技術者集団であった。

 八路軍司令部には、後に毛沢東から国家主席後継者に指名された総司令官林彪(りんぴょう)(後に反逆者と断罪され、ソ連に亡命する飛行機の墜落事故で死亡)、伍修権(ごしゅうけん)参謀長、共産党中央東北局書記彭真(ほうしん)など大物がずらりと顔を揃え、林に対して共産党軍の空軍創設を要請した。

 国民党との内戦を進める八路軍に航空戦力は皆無で、アメリカ製の高性能作戦機を多数保有する国民党軍の、空からの攻撃にはまったくの無力であった。そのため戦局を有利に展開させるには近代的な空軍が必要であったのだ。

 林少佐には、つい最近まで戦っていた敵軍に協力することは想定外であった。また軍人として「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」という、戦陣訓の一節が重くのしかかっていた。しかし、300人の部下の命を守る使命もある。支配者の庇護を受けなければ、生きて帰国もできないことから、林少佐は「捕虜扱いにはしない」「日本人の生活習慣を考慮する」「家族と暮らすことを保証し、独身者の結婚を認める」という条件を付けた。

 八路軍がこの条件を飲めば部下に諮り、部隊の過半数の賛同が得られれば協力することを申し入れた。この顛末については、NHKのドキュメンタリー番組で、林少佐の元部下中西隆氏がインタビューを受けていた。

 部下の中には、とにかく軍隊を離れて除隊したい者、一刻も早く帰国を考える者などの反対が39名、自決1名を出したが、過半数の賛成を得たのである。共産党の彭真書記から、条件が整えばできるだけ速やかに帰国させるとの約束を取り付けたことも彼の希望の一つであったようだ。

 隊員たちは旧日本軍の飛行場から、破棄された飛行機と部品をかき集めた。日本軍は撤退する時には、飛行機を徹底的に破壊していた。そのため、最新鋭の米軍機を運用している国民党軍は、飛行場に放置された旧日本軍のスクラップには関心を示さず、手付かずのままだった。彼らはそれらの部品を大量に手に入れ、使える部品を組み立て、日本陸軍が開発していた九九式高等練習機を作り上げたのである。

 この練習機で八路軍の兵隊を訓練するようになったが、飛行機に触ったこともない訓練生ばかりで、航空工学の一から教えねばならなかった。整備士養成も同様で、エンジンの仕組みから教えねばならず、言葉の壁で微妙なニュアンスがなかなか伝わらなかった。

 1948年になると八路軍が優勢となり、11月の満州での国民党軍との戦いは八路軍の勝利で終わった。この頃、国民党軍に留用されていた日本人は、アメリカの仲介ですでに帰国していたが、八路軍は留用日本人を手放さなかった。一つは冷戦で日本との国交が途絶えたこともあるが、何よりも国民党軍追撃に軍と移動する医療従事者や、さまざまな分野の技術者が必要であり、八路軍だけではそれを賄いきれなかったことにある。加えて、日本の技術者が優秀であったことも挙げられるだろう。

 林少佐らの飛行隊では、当初は日本兵から訓練を受けることに反発していた中国兵も多かったが、日本将兵たちの熱心な指導ぶりにやがて打ち解けるようになり、パイロット養成が進んでいった。

 1949年10月1日、毛沢東は北京の天安門広場に集まった30万人を前に、高らかに中華人民共和国建国を宣言。その直後、人民解放軍の赤い星のマークを付けた九九式高等練習機の編隊が上空に現れ、毛沢東をはじめ広場の群衆は空を見上げて大歓声を上げた。  パイロットの養成は、国民党との戦闘には間に合わなかったが、天安門の建国記念式典までには100人を養成しており、編隊飛行で空軍の存在をアピールしたのである。

 その後、飛行隊は中国各地の記念式典に参加し、その存在を全国民の間に周知させた。  留用日本人から訓練を受けたパイロットたちは各地で教官となり、その後に勃発した朝鮮戦争では、ソ連製のミグ19ジェット戦闘機を操り、米軍との実戦に参加したのだ。






日本人だけが知らない「終戦」の真実
松本利秋 著



松本利秋(まつもととしあき)
1947年高知県安芸郡生まれ。1971年明治大学政治経済学部政治学科卒業。国士舘大学大学院政治学研究科修士課程修了、政治学修士、国士舘大学政経学部政治学科講師。ジャーナリストとしてアメリカ、アフガニスタン、パキスタン、エジプト、カンボジア、ラオス、北方領土などの紛争地帯を取材。TV、新聞、雑誌のコメンテイター、各種企業、省庁などで講演。著書に『戦争民営化』(祥伝社)、『国際テロファイル』(かや書房)、『「極東危機」の最前線』(廣済堂出版)、『軍事同盟・日米安保条約』(クレスト社)、『熱風アジア戦機の最前線』(司書房)、『「逆さ地図」で読み解く世界情勢の本質』(小社刊)など多数。
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