カルチャー
2015年9月3日
中国、ロシア、アメリカで「対日戦勝記念日」が異なる理由
[連載] 日本人が知らない「終戦」秘話【7】
文・松本利秋
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ヨーロッパでの戦勝記念日は時差により日時が違う


 ヨーロッパでは、ドイツが正式に連合国軍最高司令官アイゼンハワー元帥に降伏文書を提出し、署名した時がVEデー(ヨーロッパ戦勝記念日)となる。
 フランスのランスにあった連合国軍総司令部で調印された停戦発効時間は、中央ヨーロッパ時間では5月8日23時1分で、当時西ヨーロッパ夏時間を採用していたイギリスでは、5月9日0時1分となり、停戦発効時間の日付が1日ずれているのだ(当時、中央ヨーロッパ時間はグリニッジ標準時にプラス1時間とし、イギリスの夏時間はプラス2時間としていた)。

 さらに複雑なのはソ連との関係である。ソ連は赤軍が進駐しているベルリンで再度降伏調印式を行なうことを主張した。それが認められ、5月8日にベルリン市内のカルルホレストに連合国首脳が再度参集して調印が行なわれた。

 その時、連合国最高司令官のアイゼンハワー元帥は、ソ連側から出席を要請されたが欠席し、代理として副司令官であるイギリス軍のアーサー・テッダー元帥を派遣した。調印式は5月8日正午に行なわれる予定だったが夜半までずれ込み、結果的には午後11時から調印が始まった。そして全員の調印が終わったのが、ベルリン時間の5月9日午前0時15分だった。

 これはモスクワ夏時間では、5月9日午前2時15分となるため、東側からドイツに攻め込んだロシア、カザフスタン、ベラルーシなどのソ連圏諸国では5月9日が対独戦勝記念日となっている。

ソ連はヨーロッパでも終戦後に戦闘を続けていた


 このように、タイムラグがあったものの、ヨーロッパではドイツが降伏した1945年5月8日で戦闘が終わったとする見方が一般的であろう。
 だがソ連はヨーロッパにおいても、この後にドイツ軍に対する戦いを継続したのである。

 ベルリンは陥落していたが、チェコスロバキアにはドイツ軍中央軍集団約90万の将兵が残存していた。5月6日にはソ連軍はそれを掃討するため、南ベルリンからウクライナ出身兵を中心とした約200万の兵士を派遣した。
 行き場を失ったドイツ軍は、チェコ国内の反共勢力と協力して果敢に戦ったが、本国そのものが降伏したために補給もなく、ついに5月11日にはソ連軍に押し潰されるように壊滅してしまった。生き残った者も処刑されたり強制労働キャンプに送られたのである。

 ソ連軍のこの行為は、チェコなど東ヨーロッパへの影響力を強めるため、反対勢力になりそうなものを一掃すると同時に、戦後を見据えて米英勢力を東ヨーロッパに入れないための戦略だとする説もある。だが、弱体した勢力を徹底して叩いておくという、ソ連の苛烈な戦略が根底にあることがわかる。

 こうしてヨーロッパの終戦日を見ていくと、その微妙な時間のずれから生まれた戦後世界の実像と、ヨーロッパの歴史の中で培われた、冷徹な戦略的構造を垣間見ることができると言えよう。

 なお、今回の記事内容については、拙著『日本人だけが知らない「終戦」の真実』(SB新書)でもふれている。あわせてご一読いただきたい。

(了)





日本人だけが知らない「終戦」の真実
松本利秋 著



松本利秋(まつもととしあき)
1947年高知県安芸郡生まれ。1971年明治大学政治経済学部政治学科卒業。国士舘大学大学院政治学研究科修士課程修了、政治学修士、国士舘大学政経学部政治学科講師。ジャーナリストとしてアメリカ、アフガニスタン、パキスタン、エジプト、カンボジア、ラオス、北方領土などの紛争地帯を取材。TV、新聞、雑誌のコメンテイター、各種企業、省庁などで講演。著書に『戦争民営化』(祥伝社)、『国際テロファイル』(かや書房)、『「極東危機」の最前線』(廣済堂出版)、『軍事同盟・日米安保条約』(クレスト社)、『熱風アジア戦機の最前線』(司書房)、『「逆さ地図」で読み解く世界情勢の本質』(小社刊)など多数。
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