カルチャー
2014年12月22日
【トンデモ将軍列伝2】えっ?クジ引きで選ばれた将軍様が存在した!足利義教
[連載] 本当は全然偉くない征夷大将軍の真実【3】
監修・二木謙一/文・海童 暖
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弾圧政治で恨みを買った義教の呆気ない最期


 義教は行政手腕を持った政治的な天才であろう。だが彼は、神経質な癇癪持ちで、自分の気に入らぬことがあると発作的に激怒するタイプで、それは残された肖像画からも想像することができる。

 彼は、機嫌の良い時は寛容だが、虫の居所が悪い時には独裁者としての狂気を見せ、自分に従わない者は守護大名や公家でも、情け容赦なく処罰する「万人恐怖」と言われる厳しい弾圧政治を行なった。

 当時は、内裏や院の御所では風紀が乱れ、場所柄もわきまえずに情事が行なわれていた。これには義教は厳罰をもって粛正し、男女別室の壁を厳重にしている。

 また、永享12年(1440)2月に、義教が禁中で松囃子という歌舞を主催したが、これを演じたのは芸人ではなく大名の子弟たちだった。これに不満を見せた右大臣鷹司房平(たかつかさふさひら)の所領を召し上げている。あるいは義教に進める御膳が悪いという理由で奉行を斬刑にし、義教から1500両の融通を命じられた商人が、逆らったとして捕縛させてもいた。

 さらに一条兼良の邸で闘鶏が催され、見物人が門前まで溢れていたところへ、たまたま通りかかった義教は喧騒に顔をしかめて怒り、洛中の鶏をことごとく追い払わせたこともあった。

 義教は有力守護の家督相続に干渉し、自分に従順で協力的な人物に守護の家督を継がせた。有力守護の家督相続者を変えさせ、自分に絶対の忠誠を誓う武士団を形成しようとしたのだ。守護大名に対する猜疑心も強く、一色義貫(いっしきよしつら)や土岐持頼(ときもちより)を粛清し、結城合戦への参戦を拒否した畠山持国(もちくに)の守護職を解任して出家させている。

 幕府の長老格の赤松満祐(みつすけ)は、義教から小柄な体躯を嘲笑されたことなどで疎まれたことを自覚し、家督を嫡子の教康(のりやす)に譲った。だが満祐の弟の義雅の所領は没収され、義教が寵愛する赤松氏庶流の貞村に与えられた。さらに満祐の所領も没収される噂が起こったため、満祐はやられる前にやることを決意し「嘉吉の乱」を起こした。

 満祐は、嘉吉元年(1441)6月に、結城合戦の祝勝会を開き、義教を自邸に招待した。満祐は門を閉めさせて邸内で馬を暴走させ、その騒動の中で満祐の家臣が義教の首を打ち落としたのである。

 相伴した管領の細川持之(もちゆき)や畠山持永(もちなが)、山名持豊(もちとよ)は逃げ惑ったが、赤松家の家臣が、将軍を討つことが本願で、他の者に危害を加える意思はないと告げると、騒ぎは収まったが、大内持世(もちよ)と京極高数は赤松勢と壮絶に斬り合い、この傷がもとで後に死去した。

 赤松父子は屋敷に火を放って、悠々と所領の播磨に引き上げたが、これを追う者はいなかった。

 義教は恨みを買う業績を積み重ねたため、つつがなく一生を終えるはずもなかったが、その48年の生涯は確実に幕府権力を強化させていた。義教の死後には幕府の権威は完全に失われていった。

(第3回・了)





本当は全然偉くない征夷大将軍の真実
武家政権を支配した“将軍様”の素顔
二木謙一 監修/海童 暖 著



【監修】二木謙一(ふたきけんいち)
1940年東京都生まれ。國學院大學大学院日本史学専攻博士課程修了。國學院大學名誉教授。豊島岡女子学園理事長。文学博士。『中世武家儀礼の研究』(吉川弘文館)でサントリー学芸賞を受賞。主な著書に『関ヶ原合戦─戦国のいちばん長い日』(中公新書)、『戦国 城と合戦 知れば知るほど』(実業之日本社)ほか多数。NHK大河ドラマ「平清盛」「江~姫たちの戦国~」「軍師 官兵衛」ほか多数の風俗・時代考証も手がけている。
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