カルチャー
2015年1月6日
【トンデモ将軍列伝5】父母の寵愛を受けた弟を自刃に追い込んだ将軍・徳川家光(後編)
[連載]
本当は全然偉くない征夷大将軍の真実【7】
監修・二木謙一/文・海童 暖
家康が残した財貨を散財し将軍権威を維持
家康の跡を継いだ2代将軍秀忠は、元和3年(1617)に家康を祀る日光東照宮を竣工した。
だが家光は自分が将軍になれたのは祖父家康のお陰として尊敬し、寛永11年(1643)に、56万8000両と銀100貫を投じて、東照宮を荘厳な社殿へと大規模改築をした。
そして数万のお供を従えるため、巨大な費用がかかる東照宮参詣を10度も行なっている。
さらに大軍を従えた上洛も三度あり、その経費の記録はないが、京で天皇や諸公卿へ献金し町衆へ祝儀をばらまいている。そして江戸に戻ると町民にも祝儀を配っているが、これには23万両を費やしているので、一度の上洛で100万両を軽く超えたことは想像できる。幕府もこの頃はまだ、豊富な蓄えがあったのである。
将軍となった家光は、秀忠の死後に外様の諸大名を前にして「東照宮(家康)は天下を平定なさるに際しては諸公の力を借りた。秀忠公も元はおのおのがたの同僚であった。しかるに私は生まれながらの将軍であるから前二代とは格式が違う。従っておのおのがたの扱いは以後、家臣同様である」と言い切り、「生まれながらの将軍」として大名を威圧した。
これに家光の意を受けた伊達政宗は「逆意を抱く者があれば、自分が先陣を承り蹴散らしてくれましょう」と力んで答えたという。
家光も父秀忠同様に、厳しく大名の改易を行なった。そこには弟の忠長も含まれ、外様大名では熊本藩主で加藤清正の子忠広ら40家、譜代と親藩27家に及んだ。
家光は幕府組織を整備して幕藩体制の完成者とされるが、家光が政務に関わることはなく土井利勝、酒井忠勝、松平信綱、阿部忠秋、堀田正盛らの有能な幕閣によるものである。
また家光は保科正之(ほしなまさゆき)が異母弟と知った。弟忠長に手を焼いた経験から、しばらくは正之を観察した。
だが正之が誠意溢れる人物と分かると抜擢し、高遠3万5000石(5000石は正之の養育料)から山形20万石とし、さらに会津23万石とした。この当時、御三家の水戸家が25万石だったため、それを超すことは控えたという。
地位を脅かした弟忠長を自刃に追い込む執念
秀忠は忠長への愛情を失ったわけではなく「その方は、いつも兄を越して先に物を申すが、はなはだ宜しからぬことである。さように出過ぎては、行く行くは兄に憎まれるであろう」と何回となく訓戒をしていたが、母の愛を一身に受け、一度は将軍になる夢を抱いた忠長に効果はなかった。
寛永元年(1624)には、忠長に東海道の要衝である駿河が加増されて、甲斐、遠江、駿河を領して55万石の大大名になったが、忠長はこれでも不満であった。家光からの加増の上使が忠長に加増を伝え、祝辞を述べると「これくらいの国を領するのは当然、何がめでたい」と不機嫌に言ったとされる。
東海道を上下する諸大名は、駿河大納言(するがだいなごん)と称される忠長に伺候して御機嫌を伺った。諸大名には将軍の実弟を疎かにできないための行動だが、幕府は将軍が2人いるように見えるとして、神経を尖らせるようになった。
寛永3年(1626)に、母の江が亡くなると、忠長は酒に溺れ奇矯な振る舞いが増していき、浅間神社裏山の猿狩りをしたり、家臣たちを理由もなく斬り捨てるなどをし、老臣は秘密裏に処理するが、噂は幕府の知るところとなった。
『古今史譚』(ここんしたん)という書には、忠長は父の秀忠に「100万石を賜るか、大坂城をいただきたい」と書面で嘆願したとあり、秀忠はこれを無視して返事をしなかったという。
幕府は忠長を甲府に移して蟄居を命じた。秀忠が病の床につくようになると、忠長は見舞いたいと願い悔悛の意を見せるが、幕府から見向きもされなかった。
寛永9年(1632)に父の秀忠が死去すると、忠長を支える者はいなくなった。家光は誰に気兼ねすることもなくなり、忠長を高崎の安藤重長に預けた。さらに寛永10年(1633)12月になると、高崎の蟄居屋敷を竹矢来で囲ませた。
これによって忠長は自分が罪人と断定されたことを知り自害した。家光の執念が果たされたのである。
家光は慶安4年(1651)正月に頭痛を訴え、歩行障害が見られた。現代医学からは高血圧性脳内出血あるいは脳梗塞と考えられるようだ。
同年4月に江戸城内で48歳の生涯を閉じている。
(第7回・了)
[連載]本当は全然偉くない征夷大将軍の真実 記事一覧
[1]なぜ、トンデモな征夷大将軍が登場するのか?
[2]【トンデモ将軍列伝1】自分の立場を勘違いしていた「苦労知らず」の将軍・源頼家
[3]【トンデモ将軍列伝2】えっ?クジ引きで選ばれた将軍様が存在した!足利義教
[4]【トンデモ将軍列伝3】子どもの数はなんと55人! 性豪将軍・徳川家斉
[5]【トンデモ将軍列伝4】大乱があろうとも趣味に没頭していた将軍・足利義政
[6]【トンデモ将軍列伝5】母に疎まれ少年趣味にはしった将軍・徳川家光(前編)
[7]【トンデモ将軍列伝5】父母の寵愛を受けた弟を自刃に追い込んだ将軍・徳川家光(後編)
[8]【トンデモ将軍列伝6】家臣の妻子にまで手を出した!?「犬公方」徳川綱吉
[9]【トンデモ将軍列伝・番外編】悪女? 有能な政治家? 巨万の富を手にした将軍の正室・日野富子
[10]なぜ江戸の将軍様は、健康を損なう人物が多かったのか
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【監修】二木謙一(ふたきけんいち)
1940年東京都生まれ。國學院大學大学院日本史学専攻博士課程修了。國學院大學名誉教授。豊島岡女子学園理事長。文学博士。『中世武家儀礼の研究』(吉川弘文館)でサントリー学芸賞を受賞。主な著書に『関ヶ原合戦─戦国のいちばん長い日』(中公新書)、『戦国 城と合戦 知れば知るほど』(実業之日本社)ほか多数。NHK大河ドラマ「平清盛」「江~姫たちの戦国~」「軍師 官兵衛」ほか多数の風俗・時代考証も手がけている。
1940年東京都生まれ。國學院大學大学院日本史学専攻博士課程修了。國學院大學名誉教授。豊島岡女子学園理事長。文学博士。『中世武家儀礼の研究』(吉川弘文館)でサントリー学芸賞を受賞。主な著書に『関ヶ原合戦─戦国のいちばん長い日』(中公新書)、『戦国 城と合戦 知れば知るほど』(実業之日本社)ほか多数。NHK大河ドラマ「平清盛」「江~姫たちの戦国~」「軍師 官兵衛」ほか多数の風俗・時代考証も手がけている。