カルチャー
2014年12月24日
【トンデモ将軍列伝3】子どもの数はなんと55人! 性豪将軍・徳川家斉
[連載] 本当は全然偉くない征夷大将軍の真実【4】
監修・二木謙一/文・海童 暖
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東京大学の赤門
(c)フレッシュ・アップ・スタジオ

 お美代の方は、智泉院の御札を霊験あらたかとして大奥の御年寄たちに配布し、日啓の加持祈祷を宣伝した。折しも第50子の千三郎が眼病を患い、お美代の方は日啓に加持祈祷を頼むと偶然に平癒した。

 これをお美代の方が触れ回わると、大奥の女中衆から側室たちまでが日啓に帰依するようになった。家斉は頭痛持ちで、それを大奥の女中たちは何かの祟りとし、日啓に祈祷と口寄せをさせたところ、日啓は家基の霊が祟っているとして家斉を怯えさせて家斉の不安を煽り、家斉は日啓に単独で拝謁できる資格まで与えていた。

 江戸から智泉院までは7里もあるが、女駕籠が続く繁盛となった。江戸から訪れた奥女中たちは籠の鳥のような生活から解放され、美男の日啓に羽目を外していった。

 お美代の方は智泉院を寛永寺や増上寺と並ぶ祈願所にするように画策した。さらにお美代の方は文政10年(1827)に加賀前田家の12代藩主斉泰(なりやす)に溶姫を嫁がせ、末姫を9代安芸藩主斉粛(なりたか)に嫁がせた。東京大学の赤門は、溶姫が将軍の姫君として嫁いだ時に造られた御守殿門である。

 家斉は天保8年(1837)には家慶に将軍職を譲っており、大御所家斉が死亡すると、お美代の方の権力が失われるのは明らかである。お美代の方は耄碌した家斉に前田斉泰を次期将軍にするという一筆を書かせていた。

 ところが家斉が息を引き取ると家慶(いえよし)に実権が移ってしまい、お美代の方は家斉の一筆を出すタイミングを失っていた。老中である水野忠邦(ただくに)は、大奥からお美代の方に繋がる日蓮宗勢力を排除し、新任の寺社奉行阿部正弘(まさひろ)を動かして智泉院の歴代住職を女犯の罪で遠島としたことで、お美代の方に身の危険が迫った。

 それを察したお美代の方の養父という立場の中野清茂は、収賄によって建てた豪壮な向島の別邸を、たちまちのうちに破壊させたという。

 水野忠邦も、肝心のお美代の方を咎めると、家斉の責任問題に発展するため追及できなかったが、お美代の方は剃髪して江戸城二の丸で余生を過ごしたという。

将軍在位50年! 奔放に生きた家斉の寂しい死


 家斉の治世時代には、外国船の出没が次々と報告された。文政8年(1825)に異国船打払令を出したが、海防費用が増大して幕府財政は破綻寸前であった。インフレが発生するが庶民への締め付けはなくなり、化政文化期の華が開いた。家斉が大奥で側室に囲まれた豪奢な生活を送ると、おのずと世間も放埒に染まり、風紀は乱れて頽廃した。

 没落農民が増加して無宿人が都市に溢れ、社会不安が増大した。各地で飢饉が発生し、餓死者が相次ぐと、一揆や打ちこわしが頻発するが幕府はなんら策を打ち出せず、ついに天保8年(1837)大坂で町奉行所元与力の大塩平八郎が民衆の救済を訴えて反乱を起こした。これは大塩の準備不足により、一日で鎮圧されたが、幕府内部から首謀者を出したことは幕閣に衝撃を与えた。

 家斉は大御所となってからも、4年間にわたって実権を握り続け、最晩年は老中の間部詮勝(あきかつ)や堀田正睦(まさよし)、さらに水野忠友に離縁された田沼意正を重用し、意のままになる取り巻きに囲まれてわがまま放題の生活をしていた。

 家斉は文政10年(1827)に、太政大臣の位を得るが、内大臣、右大臣、左大臣、太政大臣を順番通りに歴任した武家は平清盛以来である。また、徳川将軍家で左近衛兵衛を兼任したのは家光以来のことだった。征夷大将軍と太政大臣の両職を現職で兼任したのも家斉だけである。

 家斉は頭痛には生涯悩まされたが、常に晩酌をし、浴びるように飲んでも乱れなかったとされる。家斉の異常な健康体は「白牛酪」(はくぎゅうらく)というチーズのような高タンパク乳製品を好んだことにもあるとされ、大好物の生姜が体力増強に役立ったともされる。

「俗物将軍」とされ、幕政をまったく主導せず、政務は幕閣に任せて、昼となく夜となく大奥に入り浸っていた家斉だったが、頼山陽(らいさんよう)の『日本外史』には家斉の在世50年を「武門天下を平治する。ここに至って、その盛りを極む」とあり、将軍がいくら女色に耽っていても、世は平穏で幕府の権威は絶好調であったとしている。

 このように栄華を極めた家斉だったが、天保12年(1841)閏1月に、誰にも気づかれずに息を引き取っていた。享年69であった。

(第4回・了)





本当は全然偉くない征夷大将軍の真実
武家政権を支配した“将軍様”の素顔
二木謙一 監修/海童 暖 著



【監修】二木謙一(ふたきけんいち)
1940年東京都生まれ。國學院大學大学院日本史学専攻博士課程修了。國學院大學名誉教授。豊島岡女子学園理事長。文学博士。『中世武家儀礼の研究』(吉川弘文館)でサントリー学芸賞を受賞。主な著書に『関ヶ原合戦─戦国のいちばん長い日』(中公新書)、『戦国 城と合戦 知れば知るほど』(実業之日本社)ほか多数。NHK大河ドラマ「平清盛」「江~姫たちの戦国~」「軍師 官兵衛」ほか多数の風俗・時代考証も手がけている。
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