カルチャー
2014年12月26日
【トンデモ将軍列伝4】大乱があろうとも趣味に没頭していた将軍・足利義政
[連載] 本当は全然偉くない征夷大将軍の真実【5】
監修・二木謙一/文・海童 暖
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皮肉にも歴史に功績を残した浪費生活


 応仁元年(1467)に始まった応仁の乱は、収拾がつかない全国規模の合戦に発展し、文明9年(1477)に終結するまで、11年間にわたって続いた。
 義政は当初は中立を貫き停戦命令を出すが、東軍の勝元に将軍旗を与えて西軍の追討を命じ、義視が西軍に逃げ込んだこともあり、東軍寄りの態度を明確にした。

 だが義政は、戦火の中でも酒宴や連歌の会を催し、政治や軍事から逃げていた。文明5年(1473)3月には山名持豊が、5月には細川勝元が死去し、京での戦乱が終息に向かったことで、義政は将軍職を実子の義尚に譲って正式に隠居した。

 政治の第一線から離れた義政は、東山に山荘を築き始めるが、費用が莫大なため遣明船を出し、諸国に臨時税を課した。

 義政は文明15年6月にこの東山殿に移り住み、かねて望んだ風流生活を送ることになる。晩年の義政がこの山荘で同朋衆(どうぼうしゅう)たちに囲まれて、繰り広げた芸術三昧の生活は、政治担当者にあるまじき行為との批判が強い。

 しかし義政が歴史に残した大きな功績といえば、皮肉にも悪評の高い、あの浪費生活であった。

東山文化を代表する銀閣
(c)フレッシュ・アップ・スタジオ

 義政が巨費を投じて蒐集した美術品は、後世東山御物(ごもつ)と言われた。また、義政が目をかけた村田珠光(むらたじゅこう)は茶道に一流を開き、立花や猿楽、連歌などで活躍した芸術家たちの中にも、義政の保護を受けた者が多い。

 義政が東山殿に移り住んで間もなくの、延徳元年(1489)には将軍職を譲った義尚が死去した。再び政務をとらざるを得ない義政だが、中風の持病があったため政治ができる状態ではない。

 やがて中風は一層悪化し、美濃の土岐成頼(ときしげより)の許に亡命していた義視と和睦し、義視の嫡男の義材(よしき)(後の義稙(よしたね))を、養子に迎えて10代将軍に指名し後事を託したが、病気はいよいよ悪化し、延徳2年(1490)正月には、銀閣の完成を待たずに息を引き取った。55歳だった。

(第5回・了)





本当は全然偉くない征夷大将軍の真実
武家政権を支配した“将軍様”の素顔
二木謙一 監修/海童 暖 著



【監修】二木謙一(ふたきけんいち)
1940年東京都生まれ。國學院大學大学院日本史学専攻博士課程修了。國學院大學名誉教授。豊島岡女子学園理事長。文学博士。『中世武家儀礼の研究』(吉川弘文館)でサントリー学芸賞を受賞。主な著書に『関ヶ原合戦─戦国のいちばん長い日』(中公新書)、『戦国 城と合戦 知れば知るほど』(実業之日本社)ほか多数。NHK大河ドラマ「平清盛」「江~姫たちの戦国~」「軍師 官兵衛」ほか多数の風俗・時代考証も手がけている。
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