カルチャー
2015年1月9日
【トンデモ将軍列伝6】家臣の妻子にまで手を出した!?「犬公方」徳川綱吉
[連載] 本当は全然偉くない征夷大将軍の真実【8】
監修・二木謙一/文・海童 暖
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綱吉の好色に泣く者と利用する者


 堀田正俊が殿中で殺害されてから、綱吉は老中や若年寄を将軍の居間から遠ざけ、老中との連絡には側用人(そばようにん)を置いた。
 従来は中奥にあった「御用部屋」で老中たちと将軍が直接顔を合わせながら政務をこなしていたが、綱吉は「御用部屋」を表に移して老中をここに詰めさせ、老中や若年寄らが将軍に直接口出しする機会を奪った。それは将軍を諫める者をなくしてしまうことになった。

 最初の側用人は館林時代の家老牧野成貞(まきのなりさだ)であった。延宝8年(1680)から元禄15年(1702)までの見聞を歌学者の戸田茂睡(とだもすい)が記録した『御当代記(ごとうだいき)』には、綱吉は寵臣の牧野成貞の屋敷を訪れることがあり、成貞は下総関宿(せきやど)で1万5000石を領する大名に取り立てられて、当初は将軍の御成を身の栄誉と喜んだという。

 成貞と妻阿久里(あぐり)の間には松子、安子、亀子という3人の娘があり、館林時代に家老を務めた黒田直相(くろだなおすけ)の4男直達(なおさと)を次女の安子の婿に迎え、牧野成時(なるとき)を名乗らせて美濃守として叙任もされて、成貞は我が世の春を実感しただろう。

 成貞の妻阿久里は館林家の奥に勤めた評判の美人で、綱吉は若い頃から見知っていたとされる。綱吉は成貞の屋敷へ足繁く通い、阿久里に手を付けたとされ、なおも綱吉の毒牙は娘の安子にまで及び、夫の成時は屈辱に耐えかねて命を絶ったとされる。

 成貞は、元禄元年(1688)には、7万3000石にまで加増されているが、一切の抗議もせずに耐えた。そんな成貞に桂昌院は「養子を取りなさい」と勧めたが、成貞は「牧野家は自分一代にしたい」と断り隠居した。隠居後の成貞に7000石が加増されたので、綱吉も少しは成貞を憐れむ気持ちがあったのだろう。
 結果的に成貞は家臣の大戸吉房(おおどよしふさ)の子を養子とし、成春(なりはる)を名乗らせて関宿藩は継続されていった。

 次に側用人となった柳沢吉保(やなぎさわよしやす)は、したたかな男である。

 吉保は館林家では小姓組番衆であったが、綱吉が将軍になると小納戸役という低い身分に就いた。だが人の気持ちを素早く察する術に長け、学問好きの綱吉の学問上の弟子になったように抜け目がなかった。綱吉に能力を買われて側用人になると1万2000石の大名に昇り、上総国佐貫(さぬき)に封じられた。

 綱吉は吉保邸へ58回も御成をしている。元禄8年(1695)には駒込染井村の前田綱紀(つなのり)の旧邸を拝領し、後にこれが名園の六義園(りくぎえん)になる。吉保はたびたび加増されて、甲府宰相綱豊(つなとよ)が綱吉の後継に決まると、空いた甲府で15万石にまで駆け上った。

 吉保は愛妾染子(そめこ)を綱吉に差し出したとされている。染子は男子吉里(よしさと)を産むが、染子が大奥に入っていないことで、吉里は吉保の子とされて家を継ぐ。

 柳沢家では吉里を「御屋形様」と呼ばせ、将軍の子を強調するように育てた。さらに吉保から献上した側女が、閨房で綱吉に100万石を吉里に与えてくれとねだったとされ、将軍と側室の閨房には女性を添い寝させ、両人の話を聞くという異常な習慣が生まれたともされる。

 吉保は愚直に綱吉に従順であったため、側にあっても「生類憐みの令」や、度重なる貨幣改悪などを諫めることもなく、綱吉の思い付き政策を改めさせることはなかった。

 吉保は綱吉の師に荻生徂徠(おぎゅうそらい)を推薦し、元禄15年(1702)12月に、播州赤穂藩の旧臣が高家の吉良(きら)邸に討ち入り、主君のなせなかった吉良上野介(きらこうずけのすけ)を討った「元禄赤穂事件」では、世論は浪士たちを誉め称え、綱吉も彼らを忠臣と評していた。

 だが吉保は荻生徂徠の理論による「公儀の許しもなく騒動を起こし、法をまぬがれることはできない」を主張して、浪士たちに切腹を命ずる裁定を進言した。これが吉保が唯一、綱吉に対して反対意見を述べたものとされている。柳沢家は大和郡山で15万石を保ち、明治まで存続した。

 綱吉は子を授かりたい一心で「生類憐みの令」を出すなど、世間をいたずらに騒がせたが、男子のないまま宝永6年(1709)1月に死を迎えた。64歳は当時としては長寿だった。

 歴代将軍の位牌は松平家の菩提寺である三河の大樹寺に納められ、将軍の身長に合わせて位牌が作られているという俗説があるが、綱吉の位牌はわずか124センチしかなく低身長症だったとの説がある。

 死因は疱瘡(天然痘)とも麻疹とも伝えられているが、大奥の下女が実家に出した手紙に、綱吉は御台所から宇治の間で刺されたとあり、それを裏付けさせるかのように、宇治の間は長く「開かずの間」にされた。

(第8回・了)





本当は全然偉くない征夷大将軍の真実
武家政権を支配した“将軍様”の素顔
二木謙一 監修/海童 暖 著



【監修】二木謙一(ふたきけんいち)
1940年東京都生まれ。國學院大學大学院日本史学専攻博士課程修了。國學院大學名誉教授。豊島岡女子学園理事長。文学博士。『中世武家儀礼の研究』(吉川弘文館)でサントリー学芸賞を受賞。主な著書に『関ヶ原合戦─戦国のいちばん長い日』(中公新書)、『戦国 城と合戦 知れば知るほど』(実業之日本社)ほか多数。NHK大河ドラマ「平清盛」「江~姫たちの戦国~」「軍師 官兵衛」ほか多数の風俗・時代考証も手がけている。
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