カルチャー
2015年7月28日
ソ連に北海道占領を諦めさせた占守島の自衛戦──ソ連軍に抵抗した樋口李一郎の決断
[連載]
日本人が知らない「終戦」秘話【3】
文・松本利秋
北海道分割占領を目論んだソ連
樋口季一郎中将(1888-1970)。占守島守備隊には停戦命令は出ていたものの、ソ連軍の一方的な奇襲を受けて樋口は自衛のための戦いを決断した。
日本軍は自衛のために激しく抵抗したが、激戦の末についに18日に降伏。ソ連軍がサハ リン全土を占領したのは8月25日になっていた。
このサハリン攻防戦など北方防衛を受け持っていたのは札幌に司令部を置く第五方面軍で、司令官は樋口李一郎(ひぐちきちろう)中将であった。樋口はハルピン陸軍特務機関長を務めた1938年に、ナチスに追われたユダヤ系ドイツ人が、ソ連と満州の国境にある町オトポール(現ザバイカリスク)に避難していたが、日本政府は日独防共協定によりユダヤ人の満州国通過許可を出し渋っていた。
樋口は、人道的立場からユダヤ人に食料や燃料を給し、日本政府と軍部を説き伏せて、ユダヤ人の満州国通過を認めさせた硬骨漢でもあったのだ。
後にスターリンは連合軍に対して、樋口を戦犯として引き渡すように申し入れている事実から、彼の存在はソ連にとっては実に疎ましい存在であったと思われる。
千島列島北端の占守島(しゅむしゅとう)の日本軍は、戦車から砲を外すなど停戦交渉の軍使の上陸に応じる準備を進めていたが、千島列島占領作戦を開始したソ連軍は、8月18日未明に対岸のカムチャツカ半島の砲台から砲射撃を加えながら大挙上陸してきたのである。
占守島を守備するのは第五方面軍指揮下の第91師団で、アリューシャンからの米軍に備えて、この小さな島に大小80門以上の火砲と戦車85輌を集めていたのだ。第91師団長の堤不夾貴(つつみふさき)中将は自衛のための防戦を命令し、砲火を波打ち際に集中させ、ソ連軍に戦死傷者3000名以上とする大損害を与えた。これは満州、樺太を含めた対ソ連戦で日本軍最大の勝利であった。その上に師団司令部は、日魯漁業の女性従業員約400名を、ソ連兵の暴行から守るため根室に向けて退避させていた。
日本軍軍使がソ連軍陣地にたどり着き、8月21日に占守島の停戦交渉はなったが、その後もソ連軍は南下を続け、北千島南端の得撫(ウルップ)島までの占領を完了したのは8月31日のことである。第五方面軍が自衛のための戦闘を決断し、占守島での大激戦をはじめとした戦いで、ソ連軍を足止めさせた意義は大きかった。
スターリンは、トルーマンに対して北海道の北半分にソ連軍が入り、日本軍の降伏を受けたいという要求を突き付けていた。スターリンは釧路と留萌(るもい)を結ぶ線で北海道を分割し、戦後の日本占領に加わろうとしていたのだ。
ソ連軍が北海道占領を諦めざるを得なかったのは、第91師団が占守島で自衛の戦闘をしたことでタイムラグができ、この間に米軍が態勢を整えることができた。トルーマン大統領は日本の本土はすべてアメリカの占領下に置くとし、それに応えてマッカーサーがソ連の要求を撥ねつけた。そのため8月22日、ソ連は北海道占領計画を撤回したのである。
その一方でスターリンは、8月28日には部隊を樺太から択捉(えとろふ)に派遣して占領。9月1日には国後(くなしり)と色丹(しこたん)島に上陸。9月2日には歯舞(はぼまい)諸島攻略作戦が発動され、9月5日、無血占領に成功。これにより全千島を占領することとなった。
北方四島で抵抗をしなかった日本
ここにいたる過程で、われわれが留意しなければならない問題は、北方四島にソ連が侵攻した時、日本軍も住民もソ連にまったく抵抗を示さなかったことである。ソ連軍の攻撃にまったく抵抗しないのは戦闘放棄であり、日本が降伏調印をする9月2日まではソ連の行動は合法であった。
従って日本軍も自衛のために、防衛戦闘を行なう権利があったのである。さらに言えば、ソ連の北方領土占領作戦のうち、歯舞諸島に関する戦闘行為は、日本が降伏調印した9月2日の後の9月5日まで続いていたから、ソ連の軍事行動は不当であり、不法な行為と見做されても仕方ないのだ。
いずれにしても、戦闘放棄と見做される日本軍の行為は、国際常識に照らし合わせると「北方領土が日本固有の領土である」と主張する日本側の論拠を弱める歴史的事実とされるのだ。北方領土が日本固有の領土なら、ソ連侵攻の時には血を流して抵抗するべきではなかったのかという批判があるからである。
私自身、二度にわたって国後、択捉の北方領土を取材した経験があるが、その時、北方領土出身のソ連人国会議員たちと議論となった一つにこのことがあった。
当時の彼らの主張として、北方領土をソ連軍が無血占領したことを挙げ、日本人は自らの領土でないことを知っていた証拠であるとしていた。そして島々は日本固有の領土ではなく、もともとはアイヌ民族のものであり、ソ連が日本人からアイヌ民族を解放したものである。従って島を返還するなら、日本ではなくアイヌ民族に対して行なうべきであるという、日本人にとっては突拍子もない理屈を述べたのである。
北方四島を無血占領できた理由についての解釈は、国際社会の見解の一つとして、それなりの論理的説得力があったと言わざるを得ない。
しかし、ソ連が占領した北方領土、日本が固有の領土と主張する国後、択捉、歯舞、色丹の島々は、戦後度重なる交渉を重ねたが、現在も占領され続け、旧住民は故郷を奪われたままである。日露間には未だに平和条約も結ばれていないが、日本としてはあくまでも領土的主張を続けながら、粘り強く交渉を続けることが必要である。
なお、今回の記事内容については、7月16日発売の拙著『日本人だけが知らない「終戦」の真実』(SB新書)でもふれている。あわせてご一読いただきたい。
(了)
松本利秋(まつもととしあき)
1947年高知県安芸郡生まれ。1971年明治大学政治経済学部政治学科卒業。国士舘大学大学院政治学研究科修士課程修了、政治学修士、国士舘大学政経学部政治学科講師。ジャーナリストとしてアメリカ、アフガニスタン、パキスタン、エジプト、カンボジア、ラオス、北方領土などの紛争地帯を取材。TV、新聞、雑誌のコメンテイター、各種企業、省庁などで講演。著書に『戦争民営化』(祥伝社)、『国際テロファイル』(かや書房)、『「極東危機」の最前線』(廣済堂出版)、『軍事同盟・日米安保条約』(クレスト社)、『熱風アジア戦機の最前線』(司書房)、『「逆さ地図」で読み解く世界情勢の本質』(小社刊)など多数。
1947年高知県安芸郡生まれ。1971年明治大学政治経済学部政治学科卒業。国士舘大学大学院政治学研究科修士課程修了、政治学修士、国士舘大学政経学部政治学科講師。ジャーナリストとしてアメリカ、アフガニスタン、パキスタン、エジプト、カンボジア、ラオス、北方領土などの紛争地帯を取材。TV、新聞、雑誌のコメンテイター、各種企業、省庁などで講演。著書に『戦争民営化』(祥伝社)、『国際テロファイル』(かや書房)、『「極東危機」の最前線』(廣済堂出版)、『軍事同盟・日米安保条約』(クレスト社)、『熱風アジア戦機の最前線』(司書房)、『「逆さ地図」で読み解く世界情勢の本質』(小社刊)など多数。