カルチャー
2015年7月16日
ベトナムを"映し鏡"にすれば、日本の強みと弱みがわかる
[連載]
中国との付き合い方はベトナムに学べ【3】
文・中村繁夫
日本とベトナムの共通点の多さ
下請工場を営むHANEL社の女性社長と著者
半島国家と島国という違いはあるが、南北に長い国土を持つ農耕民族である点も共通している。そうした点から考えても、ベトナムの教えに耳を傾けることは比較的自然な感覚でできるはずである。
また、彼らベトナム人のほうも親日感情を抱いている人が多い。
ベトナム人に日本人の優れた点をあげてもらうと、こんな答えが返ってくる。「真面目である」「技術がある」「環境がいい」そして「人がとても気持ちいい」と。東京などは日本人でも人が多いと思っているがベトナム人に言わせると、大したことはないらしい。
そして何より中国と比べたときに「日本人は悪いことをしない」という印象を持っているのである。
また、日本人から見てもベトナム人は、基本的に真面目で、頭の回転も速い。それだけに「話が合う」というのもお互いの関係にとってはプラスだろう。
ただし、弱みもまた共通点がある。日本人もベトナム人も、目の前のことに対しては真剣に取り組むが長期的ビジョンにはやや欠けるきらいがある。そして、これは耳の痛い指摘だが、ベトナム人から見ると日本人は「人の好さ」が外交面や交渉事では、裏目に出ているというのだ。
簡単に言えば、なめられているということ。たとえば、新しいビジネスの交渉事で海外から日本に相手を呼ぶときに、相手の飛行機代から宿泊費、観光の面倒まで日本が見てあげることが少なくない。
日本が逆の立場では、自腹で相手国に飛ぶことが多いにもかかわらずである。まだ、どうなるかわからない相手に日本はサービスしすぎる。それが相手を優位にしていることに日本人は気付いていない。
世界で最も器用なベトナム人の本質
日本人も器用な民族だがベトナム人の器用さはスケールが大きいように思う。民族として幾度も修羅場をくぐり抜け、あるものは何でも使って徹底抗戦して自分たちを守ってきたのである。
器用さとは、状況に応じて「とにかく行動する」ということでもある。相手が自分たちのことを認めて何らかのアクションを起こすまで、ゲリラ戦でも何でもとにかく行動することをやめない。
中途半端な妥協はしないのがベトナム人である。その点で日本人の器用さは、どこか問題点を曖昧模糊としたものにしてしまう内向きな器用さなのではないだろうか。
ベトナム戦争においても、中国との衝突にしてもベトナムは、相手が「撤退する」というアクションを起こすまで、器用に戦い抜いた。それに対して、日本は太平洋戦争においても「敗戦」を「終戦」と言い換え、それまでの戦いは何だったのかというほどあっさりと米国の価値観に染まっていった。
そもそも、なぜ日本は「敗戦」を認めなかったのか。そこが日本の器用さと裏腹の弱さでもある。沖縄の犠牲、広島、長崎の惨状。ベトナム人は器用ではあるが、恨みは恨みとして決して忘れず、だからこそしたたかに相手を利用するのである。
【著者】中村繁夫(なかむらしげお)
1947年京都府生まれ。京都府立洛北高校卒業後、静岡大学農学部木材工業科に進学。大学院に進むが休学し、世界放浪の旅へ出かける。ヒッピーのような生活を続けながら、ヨーロッパ、ブラジル、アメリカなど30数カ国を放浪する。約3年の旅を終え、大学院に復学、修士課程を修了。旅を続ける中で、商社の仕事、レアメタルという商材に興味を覚え、繊維と化学品の専門商社、蝶理に27歳の新入社員として入社。約30年勤務し、そのほとんどをレアメタル関連部門でのレアメタル資源開発輸入の業務に従事する。蝶理の経営状況悪化により、55歳でいきなりのリストラ勧告。レアメタル事業をMBOで引き継ぐことを決意し、2003年、蝶理アドバンスト マテリアル ジャパンの社長に就任。翌年、MBOを実施し独立。アドバンスト マテリアル ジャパンの代表取締役社長に就任した。中国、ベトナムをはじめとするアジア各地で会社を設立し、ビジネスを幅広く展開。日本の「レアメタル王」として知られる。交渉を通じて数多くの失敗を経験するなかで、ベトナムの交渉術(対外戦略)が個人・ビジネス・国家レベルでいちばん日本人に参考になることを説く。ウェッジ等でアジアに関するコラムを数多く寄稿。著書に、『レアメタル・パニック』(光文社)、『レアメタル資源争奪戦』(日刊工業新聞社)、『2次会は出るな!』(フォレスト出版)などがある。
1947年京都府生まれ。京都府立洛北高校卒業後、静岡大学農学部木材工業科に進学。大学院に進むが休学し、世界放浪の旅へ出かける。ヒッピーのような生活を続けながら、ヨーロッパ、ブラジル、アメリカなど30数カ国を放浪する。約3年の旅を終え、大学院に復学、修士課程を修了。旅を続ける中で、商社の仕事、レアメタルという商材に興味を覚え、繊維と化学品の専門商社、蝶理に27歳の新入社員として入社。約30年勤務し、そのほとんどをレアメタル関連部門でのレアメタル資源開発輸入の業務に従事する。蝶理の経営状況悪化により、55歳でいきなりのリストラ勧告。レアメタル事業をMBOで引き継ぐことを決意し、2003年、蝶理アドバンスト マテリアル ジャパンの社長に就任。翌年、MBOを実施し独立。アドバンスト マテリアル ジャパンの代表取締役社長に就任した。中国、ベトナムをはじめとするアジア各地で会社を設立し、ビジネスを幅広く展開。日本の「レアメタル王」として知られる。交渉を通じて数多くの失敗を経験するなかで、ベトナムの交渉術(対外戦略)が個人・ビジネス・国家レベルでいちばん日本人に参考になることを説く。ウェッジ等でアジアに関するコラムを数多く寄稿。著書に、『レアメタル・パニック』(光文社)、『レアメタル資源争奪戦』(日刊工業新聞社)、『2次会は出るな!』(フォレスト出版)などがある。