カルチャー
2015年10月29日
世界の宗教は「世俗化」に向かっている【第二部】
[連載] 宗教消滅─資本主義は宗教と心中する─【9】
文・島田裕巳
  • はてなブックマークに追加

中田考氏が教えてくれた、イスラムの経済観


 ヨーロッパの移民が今以上に経済的な豊かさを享受するようになったとき、イランと同じ事態が起こる可能性がある。

 そもそもイスラム教の創始者である預言者ムハンマドは商人であり、その信仰は最初商人のあいだに広まった。神のメッセージであるコーランには、神と人との関係を商売における取引の関係にたとえている箇所がある。中東以外にイスラム教を広めたのも、アラビア商人であった。その点で、イスラム教は経済発展と親和的な性格をもっているとも言える。

 私は、最近、イスラム教徒でもあり、コーランの日本語訳を行うなど、イスラム世界でも屈指の学者である中田考氏との対談本、『世界はこのままイスラーム化するのか』(幻冬舎新書)を刊行した。

 その最後の章は、「イスラームは気前がいい」というもので、イスラム教の経済観について考察を深めた内容になっている。
 そこでも、イスラム教が商人の宗教として出発したことについてもふれられているが、逆にそうである以上、禁欲主義と無縁であることが話題にのぼった。
 私たち日本人は、仏教とキリスト教についてなじみがあるために、この二つの宗教に見られる出家というあり方が普遍的なものであると考えがちである。仏教の僧侶も、キリスト教カトリックの神父や修道士も、世俗の生活を離れている。
 ところが、イスラム教には出家した人間はいない。仏教には僧伽、キリスト教には修道院と言うように、出家者だけで構成された集団があるが、イスラム教にはそれがまったくないのである。
 イスラム教徒はすべて俗人であり、厳密な意味では聖職者はいない。イスラム教聖職者と言うときには、主にイマームのことをさすが、イマームも俗人であり、家庭生活を送っている。

 さらにイスラム教では、けちであることが否定され、気前の良さが重視される。金を儲けても、それを貯め込んではならず、余っているのなら、イスラム教の5つの信仰行為の一つに含まれる「喜捨」をしなければならない。つまり、貧しい人に施し、モスクの建設や維持に使わなければならないのである。
 対談をしていてとても面白かったのは、イスラム教における借金について話題が及んだときだった。
 中田氏は、ムハンマドが「全ての貸与は喜捨である」、「二回お金を貸すことは、喜捨を一回することに等しい」ということばを残していると述べ、金を貸す行為が喜捨の一種と見なされていることを指摘した。それを踏まえて、次のようなやり取りが行われた。

島田 では、お金を貸して、相手が返せなくなったら...
中田 そのときは諦めるんです。
島田 あっさりとですか?
中田 返せないものは返さなくていいよ、というのがイスラームなので。
島田 それはまた随分と寛容な考え方ですね(笑)。

 最近では、イスラム金融のことが話題になり、多くの人たちが、イスラム教では利子が禁じられていることは知っているであろう。その点でも、金を貸すことによって利益を得るというやり方は、イスラム教の教えに反している。
 商人の宗教としてはじまり、気前の良さを重視するイスラム教において、経済の発展を制約しようという考え方は生まれない。利子を否定する以上、金融資本主義には否定的かもしれないが、禁欲という考え方が重視されない点で、人々が豊かさを求めることは肯定されるわけである。

世俗化が進めば、地上から宗教は消える


 イラン以外のイスラム教が支配的な国々で、順調に経済発展が続いていくならば、古いイスラム教のやり方に戻ろうとする傾向は薄れていく。その点で、イスラム教の拡大が、そのまま宗教の力がより強くなることを意味しない可能性が考えられるのだ。

 となると、現時点では、福音派やイスラム教において宗教復興、宗教回帰の動きが起こっているように見えて、それは一時的な現象に終わるかもしれない。それが行き着くところまで行き着けば、動きは反転し、世俗化の方向へむかっていく。ヨーロッパのキリスト教社会がたどったのと同じ道を歩んでいくことになるかもしれないのである。

 この連載では、最初に、日本社会において新宗教が退潮していることを指摘し、それが既成宗教にも及んでいることについても言及した。詳しくは、後に述べていくことになるが、日本も先進国である以上、世俗化を免れることはできない。一面では、宗教ブームの様相も呈しているが、基本的な方向性としては、ヨーロッパのキリスト教世界と同じように世俗化が進行している見なければならないだろう。

 世俗化は、宗教の影響力が社会から消えていくことを意味する。たしかに、近代以前の時代においては、宗教の影響力が圧倒的で、それが生活のあらゆる分野を規制しているような状態が続いた。その点で、宗教の影響力から逃れることを望む人たちも少なくなかった。

 しかし、世俗化が進めば、人々が宗教とかかわりをもつことは少なくなり、教会やモスク、あるいは寺院や神社に人はこなくなる。そうした宗教施設は、そこを訪れる人々の喜捨や寄進によって維持されている。そうなると、宗教施設を維持することが困難になる。実際、ヨーロッパのキリスト教会はそうした状況にあり、日本でも、『寺院消滅』といった本が刊行されている。世俗化が進めば、宗教が地上から消え去っていくことが考えられるのである。

(続)





宗教消滅
資本主義は宗教と心中する
島田 裕巳 著



【著者】島田 裕巳(しまだ ひろみ)
現在は作家、宗教学者、東京女子大学非常勤講師、NPO法人葬送の自由をすすめる会会長。学生時代に宗教学者の柳川啓一に師事し、とくに通過儀礼(イニシエーション)の観点から宗教現象を分析することに関心をもつ。大学在学中にヤマギシ会の運動に参加し、大学院に進学した後も、緑のふるさと運動にかかわる。大学院では、コミューン運動の研究を行い、医療と宗教との関係についても関心をもつ。日本女子大学では宗教学を教える。 1953年東京生まれ。東京大学文学部宗教学宗教史学専修課程卒業、東京大学大学院人文科学研究課博士課程修了。放送教育開発センター助教授、日本女子大学教授、東京大学先端科学技術研究センター特任研究員を歴任。主な著書に、『創価学会』(新潮新書)、『日本の10大新宗教』、『葬式は、要らない』、『浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか』(幻冬舎新書)などがある。とくに、『葬式は、要らない』は30万部のベストセラーになる。生まれ順による相性について解説した『相性が悪い!』(新潮新書)や『プア充』(早川書房)、『0葬』(集英社)などは、大きな話題になるとともに、タイトルがそのまま流行語になった。
  • はてなブックマークに追加