カルチャー
2015年9月3日
資本主義は宗教と心中する―迫り来る『宗教消滅』の時代―
[連載] 宗教消滅─資本主義は宗教と心中する─【1】
文・島田裕巳
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衰退する新宗教


 組織というものは、拡大していくときもあれば、衰退していくときもある。宗教の世界に限っても、そうした拡大と衰退は、さまざまな形でくり返されてきた。その点では、PL教団の衰退も、格別珍しいことではない。

 しかし、衰退しているのが、PL教団だけに留まらないということであれば、その意味は違ってくるはずだ。

 PL教団の場合と同じように、『宗教年鑑』の平成2年版と24年版を比べてみると、他にも大幅に信者数を減らしている教団があることが分かった。

 PL教団は、本部が大阪の富田林市にあるわけで、その勢力は関西を中心とした西日本に広がっている。そのPL教団が戦後に急速に拡大していく前、関西圏を中心に大きな勢力を保持していたのが、新宗教の草分けと言える天理教である。その天理教も、180万7333人から119万9652人に減少していた。教団の規模は3分の2に縮小しているのである。

 一方、東京を中心とした東日本で大きな勢力を誇ってきたのが立正佼成会と霊友会である。立正佼成会の場合には、633万6709人から323万2411人とほぼ半減しており、霊友会になると、316万5616人から141万2975人と、半分以下に縮小している。

 立正佼成会は、元霊友会の信者だった2人の人間が起こした教団で、ともに日蓮系、法華系の教団である。この2つの教団と同じように、日蓮系、法華系として戦後急拡大したのが創価学会である。創価学会では、信者数を世帯で公表し、その数はずっと827万世帯のままなので、信者の増減が分からないが、世帯数がここのところまったく増えていないところに、組織の停滞が暗示されているように思える。

 創価学会の場合、信者になった人間には、日蓮が「南無妙法蓮華経」を中心に書いた本尊曼陀羅を模写したものが授与されるが、それは一世帯あたり一枚授与されるので、信者数は世帯を単位に数えている。

 創価学会では、入会金も月々の会費もないため、一度本尊曼陀羅を授与された後、信者であることを辞めたのかどうかがはっきりしない。したがって、827万とは、一度は本尊曼陀羅を授与されたことのある家庭の数と考えられる。その数が増えていないということは、少なくとも、新しい信者を獲得できていないことを意味する。

 現在の日本の社会において、新宗教が大幅に衰退しているからと言って、多くの人は格別何も感じないかもしれない。自分たちの生活には関係がないからである。

 しかし、天理教を除いて、ここまであげてきた新宗教の教団が、皆、戦後に急速に拡大していったことを考えると、そこには、日本の社会が変容をとげつつある可能性が見えてくる。社会が変わってきたからこそ、新宗教の力が衰えているのではないか。そう考えられるのである。

神道、仏教...日本の宗教が消える日


 しかも、衰退しているのは新宗教だけではない。既成宗教の方も、仏教だろうと神道だろうと、やはり衰退の兆しが見えている。

 たとえば、今年、高野山は開創1200年を迎え、50日間にわたって法会が行われた。その間の参拝者の数は約60万人で、高野山の側は、事前の予測の倍近くに達したと述べていた。

 それを聞くと、高野山に対する信仰は高まりを見せているかのように思える。ところが、事前の30万人という推定の参拝者数はあまりに低かった。

 というのも、1984年に開かれた「弘法大師御入定1150年御遠忌大法会」の際には、参拝者の数が100万人に達していたからである。予測の倍になったとは言っても、実際には、参拝者は1984年と比べて4割も減少しているのである。

 神道の世界では、2013年に、伊勢神宮で20年に一度の式年遷宮が行われ、その年の参拝者は、内宮と外宮あわせて1400万人に達し、至上最高を記録した。14年も、続けて1000万人を超えたが、15年は、1000万人を大きく下回るものと予想される。

 日本の宗教界全体を見回してみると、いつの間にか、景気の悪い話ばかりが聞こえてくるようになった。日本の宗教は確実に衰退の兆候を示している。

 では、世界ではどうなのだろうか。

 この連載では、日本だけではなく、世界における宗教の現状を押さえ、その意味を探ろうと考えている。

 世界に目を広げてみると、衰退の兆候も見えるが、一方で、地域や国によっては宗教が以前よりも盛んになっているところがある。あるいは、古い信仰が衰え、新しい信仰が台頭しているようなところもある。

 なぜ、そうした事態が生まれたのか。そこには、経済や政治の問題も深くからんでおり、状況はかなり複雑である。何より、「資本主義」というあり方と宗教の興廃とは密接な関係をもっている。

 宗教の今を考えることは、資本主義の今を考えることでもあるのである。

(続)





宗教消滅
資本主義は宗教と心中する
島田 裕巳 著



【著者】島田 裕巳(しまだ ひろみ)
現在は作家、宗教学者、東京女子大学非常勤講師、NPO法人葬送の自由をすすめる会会長。学生時代に宗教学者の柳川啓一に師事し、とくに通過儀礼(イニシエーション)の観点から宗教現象を分析することに関心をもつ。大学在学中にヤマギシ会の運動に参加し、大学院に進学した後も、緑のふるさと運動にかかわる。大学院では、コミューン運動の研究を行い、医療と宗教との関係についても関心をもつ。日本女子大学では宗教学を教える。 1953年東京生まれ。東京大学文学部宗教学宗教史学専修課程卒業、東京大学大学院人文科学研究課博士課程修了。放送教育開発センター助教授、日本女子大学教授、東京大学先端科学技術研究センター特任研究員を歴任。主な著書に、『創価学会』(新潮新書)、『日本の10大新宗教』、『葬式は、要らない』、『浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか』(幻冬舎新書)などがある。とくに、『葬式は、要らない』は30万部のベストセラーになる。生まれ順による相性について解説した『相性が悪い!』(新潮新書)や『プア充』(早川書房)、『0葬』(集英社)などは、大きな話題になるとともに、タイトルがそのまま流行語になった。
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