カルチャー
2015年9月17日
フランスの「カトリック消滅」
[連載] 宗教消滅─資本主義は宗教と心中する─【3】
文・島田裕巳
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『禁じられた遊び』に見るフランスの教会離れ


 教会に出席する信徒が大幅に減少すれば、教会は成り立たなくなり、司祭になろうとする人間も減っていく。
 1950年代においては、フランスで司祭になろうとする人間は毎年1000人程度いた。
 ところが、現在では毎年100人程度と、10分の1に減っている。その結果、2009年の時点で、フランスの司祭は8715名しかいなくなった。日本では、仏教の僧侶の数は、31万人もいる。
 しかも、そのうち1315名は外国からやって来た司祭である。2025年には、フランスの司教区のうち3分の1は統廃合されることになるだろうと推定されている。
 フランスは、18世紀終わりに起こった「フランス革命」によって、それまで絶大な権力を誇っていたカトリック教会の力が大幅に弱まった。それでも、人々の信仰は、それほど簡単には変わらなかった。

 たとえば、フランスの有名な映画に『禁じられた遊び』という作品がある。1952年の作品で、ナルシソ・イエペスの弾くギターの音楽もよく知られている。
 この映画は、ナチス・ドイツとの戦争が続いていた時代を舞台にしたもので、主人公の両親がドイツ軍の戦闘機による機銃掃射で殺されることから、反戦映画ととらえられているが、実はキリスト教の信仰が中心的なテーマになっている。
 主人公の少女はパリで育ったために、お祈りの仕方も分かっていない。その少女を救った田舎のおばさんたちは、それを知ると、慌て少女にお祈りの仕方を教える。ところが、そのことが少女に変な影響を与えることになり、小動物を殺して埋め、十字架を立てるという行為に結びつく。
 今、この映画を見てみると、いったい何を意図してこの作品が作られたのか、かなり疑問に思えてくるが、宗教学の観点からすれば、キリスト教の信仰がときに少女の心を歪めるという点を訴えたものにも見えてくる。
 少なくとも、フランスではそれほどカトリックの信仰が強い影響力を与えていたのだが、今は見る影もない。日本人は関心をもってこなかったが、フランスでは想像を絶する規模で、「教会離れ」、「宗教離れ」が起こっているのである。

日本人は「無宗教」ではない


 日本人は、自分たちのことを「無宗教」であると考えている。特定の宗教を信仰していない、特定の教団には所属していないというわけだ。
 その点では、フランス人も、日本人と同じように無宗教になってきたと考えられるかもしれない。
 だが、日本における無宗教とフランスにおける無宗教では、まるで違う。
 日本人の場合、自分たちは無宗教であるとは言いながら、宗教といっさいかかわらないわけではない。初詣には神社仏閣に出かけていき、葬式は仏式でやることが多い。ともに、外側から見れば、間違いなく宗教行為であり、意識と行動とのあいだに大きなズレがある。
 逆に言えば、日本では、土着の神道の信仰も、6世紀の半ばに朝鮮半島から伝えられた外来の仏教が、長い間にわたって生きた宗教として根づいてきたと見ることもできる。

 ところが、フランスでの無宗教は、まったく違う。
 フランスでは、2011年に63パーセントがキリスト教徒としての自覚を持っているという統計を紹介したが、別の統計では、2010年の時点で、キリスト教徒の割合は44パーセントに過ぎないという結果が出ている(カトリックが41パーセントで、プロテスタントが2パーセント、その他のキリスト教が1パーセントである)。
 それに対して、「無宗教・あるいは神の存在に対して懐疑的な不可知論」が29パーセントであり、さらに、「神の存在を否定する無神論」が13パーセントである。両者をあわせると、42パーセントになり、キリスト教の信仰をもつ人間の割合と拮抗している。

 無神論は無宗教とは異なり、神の存在を積極的に否定する。これは、日本人のなかにはほとんどいない立場である。無神論であれば、教会にかかわることはいっさいない。また、他の宗教ともかかわりをもつことがないわけだから、日本人の無宗教とはまるで違い、宗教施設へ出掛ける機会はまったくなくなる。
 フランスの無宗教の場合は、おそらくいろいろな立場がある。
 自分はキリスト教の信仰をもっている、あるいは洗礼を受けているが、教会には行くことがないといった人間も含まれていることだろう。そうした人の場合には、結婚のときに教会で式を挙げたり、子どもが生まれれば幼児洗礼だけは授けておくという態度をとるかもしれない。その点では、日本人の無宗教に近い。したがって、無宗教と無神論を合わせた42パーセントが、まったく教会と無縁になっているとは言えないかもしれないが、フランスで急速な教会離れが進み、それが宗教そのものから離れていくことに結びついていることは否定できない。





宗教消滅
資本主義は宗教と心中する
島田 裕巳 著



【著者】島田 裕巳(しまだ ひろみ)
現在は作家、宗教学者、東京女子大学非常勤講師、NPO法人葬送の自由をすすめる会会長。学生時代に宗教学者の柳川啓一に師事し、とくに通過儀礼(イニシエーション)の観点から宗教現象を分析することに関心をもつ。大学在学中にヤマギシ会の運動に参加し、大学院に進学した後も、緑のふるさと運動にかかわる。大学院では、コミューン運動の研究を行い、医療と宗教との関係についても関心をもつ。日本女子大学では宗教学を教える。 1953年東京生まれ。東京大学文学部宗教学宗教史学専修課程卒業、東京大学大学院人文科学研究課博士課程修了。放送教育開発センター助教授、日本女子大学教授、東京大学先端科学技術研究センター特任研究員を歴任。主な著書に、『創価学会』(新潮新書)、『日本の10大新宗教』、『葬式は、要らない』、『浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか』(幻冬舎新書)などがある。とくに、『葬式は、要らない』は30万部のベストセラーになる。生まれ順による相性について解説した『相性が悪い!』(新潮新書)や『プア充』(早川書房)、『0葬』(集英社)などは、大きな話題になるとともに、タイトルがそのまま流行語になった。
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